| 1957年に漫画を書き光文社の『少年』に持ち込みをする。 |
| 光文社との打ち合わせで東映動画設立の話を聞き、出来たばかりの東映動画の大泉スタジオを訪ねる。 |
| そこで山本善次郎と話をして募集することにした。 |
| 同社の第1回目の一般募集で入社。 |
| 養成期間中の成績が高く、養成が終わると東映動画の長編第1作『白蛇伝』で早くもセカンド原画を任される。 |
| しかしスタッフと衝突し仕事がこなくなった。 |
| 暇なところを森康二の絵コンテを見て「ここをやらせて下さい」と提案。 |
| これが受け入れられ原画に大抜擢された。 |
| (これまで『白蛇伝』の原画には森康二と大工原章の二人しかいなかった)。 |
| その後もアニメ映画を多く手掛け、得意なアクションシーンで腕を振るった。 |
| 手塚治虫の虫プロによる『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を迎えると、東映動画のテレビアニメ第2作『少年忍者風のフジ丸』で楠部は作画監督を担当。 |
| 当時は該当する役職がなかったが今日でいう所のキャラクターデザインも担当した。 |
| また『フジ丸』の演出には実写畑からの人材が多く、楠部は矢吹公郎、田宮武、勝間田具治、村山鎮男などにアニメの演出を教えた。 |
| 『フジ丸』は制作が遅れ東映動画は楠部も原画に参加するよう要請した。 |
| 楠部が断ると作画料を上げて再度要請してきた。 |
| こうして『フジ丸』のスケジュールが逼迫するたびに楠部の収入は上がり、月収が150万円になった。 |
| (男性大卒の初任給が2万円台の時代である)。 |
| この時の収入が後のAプロダクション設立の資金になる。 |
| さらに東映動画から虫プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるため、大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた。 |
| しかし楠部の給料が東映動画の社長よりも高いことが判明し、騒動になり1965年9月に退社した。 |
| (『動画王』vol.7 キネマ旬報社、1998年、50-74頁より)。 |
| 東映動画は動画連盟を通じて他社に楠部を採用しないように働きかけたが、これが逆効果を生んだ。 |
| 楠部が東映動画から退社して帰宅したら手塚治虫から虫プロの重役待遇で迎える話を持ちかけられた。 |
| 断ってから20分後に藤岡豊に東京ムービーに誘われた。 |
| これも「もう宮仕えはする気はない」と断った。 |
| そこで東映動画が長編動画時代のスタッフを切り捨て、若手中心のスタッフで低予算のテレビアニメ時代を乗り切る方針を選択したこともあり、アニメ制作会社として1965年12月にAプロダクション(以下Aプロ)を設立、東京ムービーの制作部門を請け負うことになった。 |
| 親分肌の性格で知られ、Aプロの初期のスタッフは東映動画からついてきた芝山努、小林治、椛島義夫などである。 |
| Aプロでは社長としてプロダクションの経営に当たる一方、作画監督として、その確かなデッサン力と骨太なタッチでテレビアニメ『巨人の星』で不可能といわれた劇画タッチのアニメへの導入に成功。 |
| 定期採用により、多くの優秀なアニメーターを養成した。 |
| また、台湾にもアニメ制作会社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台湾でアニメーターを育て上げている。 |
| 同時進行する制作本数が5本になった1974年、テレビアニメ『柔道讃歌』の作画監督を務めている最中に病に倒れる。 |
| 1年間の療養を取り、その間に制作本数が激減。 |
| 経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じた。 |
| さらに東京ムービー自体の製作本数の減少と、東京ムービーの藤岡豊が梶原一騎、山本又一郎と共に三協映画を設立した影響で東京ムービーの経営が困窮。 |
| 東京ムービーの経営部門を東京ムービー新社として独立させ、残りの東京ムービーを楠部に引き取るように要請したが断った。 |
| こうして1977年にAプロは東京ムービーとの契約を円満解消。 |
| 社名も東京ムービー新社に対抗してシンエイ(新A)動画と改め、企画と製作も行なう制作会社として再出発した。 |
| シンエイ動画以降の楠部は、テレビアニメ『日本名作童話シリーズ赤い鳥のこころ』などの作画監督として参加していたが、それ以降は作画をやめ社長・会長職に専念するも、映画ドラえもんだけは監修として長い間参加していた。 |
| 2005年8月27日死去。 |
| 2006年3月にシンエイ動画設立の功績が称えられ、東京国際アニメフェア第2回特別功労賞が授与された。 |