| 紀元前141年に漢で武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた。 |
| この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。 |
| また張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことが伺われる。 |
| 漢は紀元前121年に衛青と霍去病の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした。 |
| 彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。 |
| この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。 |
| 紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえる。 |
| こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになった。 |
| しかし、大挙増大した漢の人々(中には新興の交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれている)と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大した。 |
| 特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。 |
| これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃将軍趙破奴と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行った。 |
| 騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。 |
| このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。 |
| ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。 |
| 間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。 |
| こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。 |
| やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。 |
| 武帝は大宛の汗血馬を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪った。 |
| これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した(紀元前104年-紀元前101年)。 |
| この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。 |
| 楼蘭王はそれに答えて「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという。 |
| 武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された。 |
| 以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していく。 |