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つながりの強いひと
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橋本大二郎
橋本大二郎(はしもとだいじろう、1947年(昭和22年)1月12日-)は日本の政治家(前高知県知事)、元NHK職員(記者、キャスター)。厚生大臣、文部大臣などを... |
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小渕恵三
日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。学位は政治学修士(早稲田大学)。衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣... |
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橋本龍伍
父
日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は法学士。大日本麦酒の元常務橋本卯太郎の五男。第82代・第83代内閣総理大... |
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橋本岳
息子
日本の政治家。前衆議院議員。自由民主党、平成研究会、83会所属。学位は修士(政策・メディア)。特技は剣道(段位は三段)。第82・83代内閣総理大臣の橋本... |
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中曽根康弘
日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。財団法人世界平和研究所会長。中曾根康弘とも表記される。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運... |
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野中広務
日本の国鉄職員、政治家、福祉事業家。勲等は勲一等。報道や自著などでは新字体で野中広務(のなかひろむ)と表記されることが多い。社会福祉法人京都太陽の... |
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村山富市
日本の政治家。勲等は桐花大綬章。社会民主党名誉党首、学校法人明治大学顧問。大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、衆... |
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橋本竜太
橋本竜太 更新日: 10/05/08 20:40 研究者氏名 橋本竜太 URL http://www.dg.kagawa-nct.ac.jp/~hasimoto/ 所属 香川高等専門学校 部署 一般教... |
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橋本久美子
妻
プロフィール
1959年10月生
氏名 橋本久美子(はしもとくみこ) 職位 吉村紙業株式会社
代表取締役社長
趣味 読書・観劇・料理
学歴... |
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森喜朗
日本の政治家。衆議院議員。文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、自由民主党総裁(第19代)、内閣総理大臣(第85代・第86代)... |
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田中角栄
日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。 |
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古賀誠
日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。宏池会(古賀派)、日本遺族会、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会でそれぞれ会長を務める。運輸... |
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鈴木宗男
日本の政治家。前衆議院議員(8期懲役刑確定に伴い2010年〈平成22年〉9月15日に失職)、新党大地代表(初代、収監中は浅野貴博が代行)。かつては国務大臣北... |
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海部俊樹
日本の政治家。財団法人日本ソフトテニス連盟会長、社団法人大正琴協会理事長、特定非営利活動法人日本ティーボール協会会長。衆議院議員(16期)、文部大臣... |
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橋本卯太郎
日本の実業家。大日本麦酒(現・サッポロビール)の元常務取締役。厚生大臣、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の父、内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎の祖父。 |
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亀井静香
日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。衆議院議員(11期)、国民新党代表(第2代)。報道などでは新字体を用い亀井静香とも表記される。ま... |
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竹下登
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。島根県議会議員、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第35・38代)、建設大臣(第38代)、大蔵大臣(第84・86・8... |
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加藤六月
日本の政治家。衆議院議員(11期)、国土庁長官、北海道開発庁長官、農林水産大臣を歴任した。 |
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梶山静六
日本の政治家。元衆議院議員(9期)、自治大臣(第36代)、国家公安委員長(第46代)、通産大臣(第51代)、法務大臣(第52代)、自由民主党国会対策委員長(... |
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羽田孜
日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党最高顧問。元内閣総理大臣(第80代)。(在任期間:1994年4月28日-6月30日)。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵... |
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プロフィール
- 橋本龍太郎とは
- 概要
- 生い立ち
- 学生時代
- 政治家の道へ
- 枢要ポストを歴任
- 総裁候補へ浮上
- 第17代自民党総裁
- 第二次橋本内閣
- 首相退任後
- 政策
- 略歴
- 家族・親族
- 関連サイト
橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、7月29日-7月1日)は、日本の政治家。岡山県総社市名誉市民。位階勲等は正二位大勲位。愛称は橋龍(はしりゅう)。衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、沖縄及び北方対策担当大臣、規制改革担当大臣等を歴任した。
概要
| 初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。 |
| また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣、大蔵大臣等を歴任し、所謂ニューリーダーの後をになう総裁候補に目されるようになった。 |
| 1994年に発足した、自社さ連立政権の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。 |
| 在任中は住専問題や行財政改革に取り組み、外交面ではビル・クリントンアメリカ合衆国大統領やボリス・エリツィンロシア連邦大統領と親交を深める。 |
| 第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も森内閣で沖縄開発庁長官や規制改革担当大臣、沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。 |
| 2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。 |
| 2005年に政界を引退し、翌2006年に死去。 |
| 橋本は小沢一郎や羽田孜、小渕恵三ら、かつての田中派・竹下派の幹部の1人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。 |
| 「ポマード頭」と呼ばれる整髪料で丹念に整えた髪形(ただし実際はポマードではなく、ヘアクリームやムースでヘアスタイルを整えていた)が特徴。 |
| 剣道教士六段の段位を持つ。 |
生い立ち
| 東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。 |
| 母・春は警視総監、朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女。 |
| 母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。 |
| 父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家の出である祖母の真都に育てられた『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』12頁。 |
学生時代
| 田園調布小学校に入る前、7歳の時に、継母・正を迎えた『橋本龍太郎・全人像』98-100頁。 |
| 麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。 |
| それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった『橋本龍太郎・全人像』108頁。 |
| 麻布高校に進むと山岳部に所属した。 |
| 高校時代は登山にあけくれてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだった『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』31、32頁。 |
| また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた『橋本龍太郎・全人像』116頁。 |
| 1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。 |
| 慶應は足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた大学でもあり、父にとっても龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という『橋本龍太郎・全人像』118頁。 |
| 大学でも剣道に力を入れた。 |
| とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた『橋本龍太郎・全人像』118頁。 |
| なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』35頁。 |
| 大学卒業後、呉羽紡績株式会社のち東洋紡績に吸収合併。 |
| クレハは分社した化学部門に入社した。 |
政治家の道へ
| 社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。 |
| 会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』39頁。 |
| 父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。 |
| 後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。 |
| 腕白坊主だったから」と述べている『橋本龍太郎・全人像』123頁。 |
| しかし、当時大学生であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった『小説角栄学校』83頁。 |
| 1963年の総選挙で衆議院議員に初当選。 |
| 開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。 |
| この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』 47-48頁。 |
| 初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され『橋本龍太郎・全人像』128頁、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。 |
| 本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。 |
| 議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。 |
| 久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。 |
| 佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた『仕事師と呼ばれた男橋本龍太郎』30頁。 |
| そういった関係でもあり派閥は佐藤派に所属した。 |
| 1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。 |
| この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。 |
枢要ポストを歴任
| 1978年12月7日、第1次大平内閣で厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たした。 |
| 昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。 |
| 厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した |
| 水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。 |
| しかし応対した橋本は、患者らの「人命軽視だ」という批判に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた『橋本龍太郎・全人像』148頁。 |
| 竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。 |
| 1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任して国鉄民営化を担当した。 |
| 大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。 |
| 1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任し、健康不安のある幹事長の安倍晋太郎を支え続け、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。 |
総裁候補へ浮上
| 1989年、宇野内閣成立時には幹事長代理の経験が買われ、幹事長に昇格した。 |
| リクルート事件の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選ではかつてない逆風にさらされて自民党が惨敗した際には「ちくしょう…」と悔しがるシーンがTVで放映され話題となったが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説したことで、国民的人気を得るに至った『自民党幹事長室の30年』pp.227-232。 |
| 宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。 |
| しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。 |
| 当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。 |
| 1989年8月海部内閣で大蔵大臣に就任し『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞任した。 |
| 1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。 |
| 小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。 |
| 小沢・羽田派は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。 |
| 経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動をともにした。 |
| 1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した『小説角栄学校』pp.209。 |
| 総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。 |
| 宮澤喜一首相の後継総裁にと後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。 |
| この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を著している。 |
| 自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣で通商産業大臣に就任した。 |
| 大臣在任中、日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。 |
第17代自民党総裁
| 1995年9月、橋本は国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。 |
| 当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎打ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、ともに昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。 |
| 河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」と評される総裁選が展開された『小説池田学校』pp263-265『』pp41-42。 |
| 幹事長に宮澤派の加藤紘一、総務会長に三塚派の塩川正十郎。 |
| 政調会長に旧渡辺派の山崎拓を選任した。 |
| 橋本は総裁就任に伴って、村山内閣改造内閣で副総理を兼務し引き続き通産相をつとめた。 |
| 1996年1月11日、村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。 |
| 官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。 |
| 就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。 |
| 同年2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求、4月に全面返還で日米政府が合意した。 |
| 普天間の代替基地についても安全保障政策や環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋をつけた。 |
| 自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に現職の内閣総理大臣としては11年ぶりに靖国神社を私的参拝した。 |
| 小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。 |
第二次橋本内閣
| 1996年11月7日、社会党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣となった第2次橋本内閣が発足。 |
| メンバーには武藤嘉文総務庁長官、水野清首相補佐官のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。 |
| 同年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を現地の左翼ゲリラが占拠し、多数が人質となるペルー日本大使公邸人質事件が発生。 |
| 1997年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。 |
首相退任後
| 2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任した事に伴って、会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適当な人材が居なかった為である。 |
政策
| 第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。 |
略歴
| 1937年7月-東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれるなお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。 |
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1956年
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慶應義塾大学法学部政治学科に入学 |
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1962年
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父・龍伍が急死した |
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橋本龍太郎さんについてのひとこと紹介
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