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つながりの強いひと
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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吉備真備
日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。下道真備(しもつみちのまきび)、吉備下道真備(きびのしもつみちのまきび)などとも呼ば... |
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藤原不比等
親 妻
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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藤原仲麻呂
奈良時代の公卿。名は仲麿または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智... |
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藤原広嗣
奈良時代の廷臣。藤原式家の祖、参議・藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女。官位は従五位下・大宰少弐。 |
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聖武天皇
聖武天皇(しょうむてんのう、大宝元年(701年)-天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19... |
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天武天皇
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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橘嘉智子
第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。別名・檀林皇后(... |
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源平藤橘
天皇 から賜った姓で、組織名であるが、
多智葉那(たちはな、立花(たちばな))と分解すると、 百済 国、葉木国(今の 韓国 )となるので、 百済 国や葉木... |
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橘奈良麻呂
奈良時代の貴族。左大臣橘諸兄の子。正四位下・参議。贈正一位・太政大臣。2代目橘氏長者。 |
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橘逸勢
平安時代の書家・官人。橘奈良麻呂の子で右中弁を務めた橘入居の末子。嵯峨天皇皇后・橘嘉智子、右大臣橘氏公はいとこにあたる。官位は従五位下・但馬権守、... |
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光明皇后
奈良時代の人。聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明... |
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橘佐為
kotobank > 橘佐為とは 橘佐為 【たちばなの-さい】 1件の用語解説(橘佐為で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 橘佐為... |
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橘朝臣
2 地方豪族で橘朝臣姓を名乗るものはいくつかあり、例えば河内の楠木正成の一族や伊予出身の橘遠保の後裔諸氏(小鹿島、渋江の一族)などがよく知られており... |
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綴喜郡井手町
綴喜郡井手町 の求人情報 以下の検索条件に該当する求人情報は 3 件です。 さらに条件指定して再検索 条件を追加/変更する 雇用形態 [ 閉 ] 指定なし 就職... |
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大伴家持
友達
大伴家持(おおとものやかもち、養老2年(718年)頃-延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言... |
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美努王
父
飛鳥時代の皇族。父は栗隈王。妻の県犬養三千代との間に葛城王(後の橘諸兄)・佐為王・牟漏女王がいる。呼び方についてはみのおうともいい、標記については... |
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道鏡
奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓... |
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礎石
礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。転じて、ものごとの土台や基礎のことをさす。礎石を用いない場合、柱... |
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敏達天皇
第30代天皇(在位:敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)-同14年8月15日(585年9月14日))。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、『... |
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プロフィール
- 橘諸兄とは
- 生涯
- 系譜
- 官歴
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
橘諸兄(たちばなのもろえ、 天武天皇13年(684年)-天平勝宝9年1月6日(757年1月30日))は、奈良時代の政治家・元皇族。 敏達天皇の後裔で大宰帥 美努王の子。元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。正一位・ 左大臣。井出 左大臣または西院大臣と号する。初代橘 氏長者。
生涯
| 敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で諸王であった。 |
| 天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。 |
| 天平9年(737年)、疫病の流行によって藤原四兄弟をはじめとして、多くの議政官が死去してしまい、出仕できる公卿は従三位左大弁諸兄と同大蔵卿鈴鹿王のみとなった。 |
| そこで朝廷では急遽同年の8月24日、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、4日後に鈴鹿王を知太政官事(令外官、太政大臣と同格で皇族であることが任用条件)に任命して応急的な体制を整えた。 |
| 翌10年(738年)1月13日、諸兄は正三位右大臣に任命され、一躍朝廷の中心的存在となった。 |
| これ以降、国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。 |
| 天平15年(743年)5月5日、従一位左大臣となる。 |
| 天平感宝元年(749年)、正一位に陞階。 |
| 生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。 |
| 孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増すようになる。 |
| 天平勝宝7年(755年)、聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、同8年(756年)2月2日辞職を申し出て引退する。 |
| 同9年(757年)1月6日に死去。 |
| 諸兄の死の同年、息子の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。 |
| 大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もある。 |
| 『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にも入っており、一定の信憑性をもつものとされる。 |
| 後に仙覚は橘諸兄・大伴家持の2人共撰説を唱えている。 |
| 『万葉集』では7首の歌を残している。 |
官歴
| 日付は旧暦。 |
| 誕生(1)。 |
| 1月7日従五位下(27)。 |
| 12月2日馬寮監(めりょうげん)(28)。 |
| 1月10日従五位上(38)。 |
| 1月10日正五位上(40)。 |
| 2月22日従四位下(41)。 |
| 3月4日正四位下(46)。 |
| 9月28日左大弁。 |
| 9月27日兼催造司の監(かみ)(47)。 |
| 8月参議(48)。 |
| 1月7日従三位(49)。 |
| 11月11日臣籍降下し、橘宿禰の姓氏を賜る。 |
| 8月24日従三位大納言(54)。 |
| 1月13日正三位右大臣(55)。 |
| 1月13日従二位(56)。 |
| 11月21日正二位(57)。 |
| 5月5日従一位左大臣(60)。 |
| 4月5日兼大宰帥(63)。 |
| 4月14日正一位(66)。 |
| 1月16日朝臣の姓を賜る(67)。 |
| 2月2日辞職(73)。 |
| 1月6日卒(74)。 |
参考文献
| 井上豊「橘諸兄論Ⅰ・Ⅱ」、『上代文学』5・7、1955・56年。 |
| 横田建一「橘諸兄と奈良麻呂」、『歴史教育』15-4、1967年。 |
| 市村 宏「橘諸兄」、『東洋学研究』9、1975年。 |
| 直木孝次郎「諸兄と元正太上天皇」、『国文学 解釈と教材の研究』23-5、1978年。 |
| 木本好信「橘諸兄と奈良麻呂の変」、筑波大学日本史学論叢14、1992年。 |
| 中西 進「橘諸兄の周辺」、学士会会報795、1992年。 |
| 木本好信「紀飯麻呂と橘諸兄政権」、『奈良時代の藤原氏と諸氏族』、おうふう、2004年。 |
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