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プロフィール
- 武市瑞山とは
- 剣術家
- 土佐勤王党結成
- 吉田東洋暗殺
- 国事周旋と天誅
- 勤王党弾圧
- 歿後
- テレビドラマ
- 関連サイト
武市瑞山(たけちずいざん)は、日本の志士、武士、土佐藩郷士。土佐 勤王党の盟主。通称は半平太で、武市半平太(たけちはんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。土佐藩郷士・ 武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村氏の娘・富子。子女はなし。 坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐 勤王党を結成。参政
剣術家
| 文政12年(1829年)9月27日に土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。 |
| 武市家はもともと土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格した。 |
| 「白札」は郷士だが、当主は上士に準ずるといった、身分の差別が特に激しい土佐に於いては却って適当な振る舞いが難しい、面倒な扱いであった。 |
| 天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ松岡司『武市半平太伝』p21。 |
| 嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために半平太は同年12月に郷士島村源次郎の長女・富子を妻としている入交好脩『武市半平太』p25。 |
| 翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流の麻田勘七の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。 |
| 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している『維新土佐勤王史』p36。 |
| 翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き入交好脩『武市半平太』p26、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。 |
| 安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父で槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった入交好脩『武市半平太』p26-27。 |
| この道場の門下には中岡慎太郎や吉村虎太郎、岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる。 |
| 同年秋に剣術の技量を見込まれて藩庁の命により、安芸郡や香美郡での出張教授を行う入交好脩『武市半平太』p27。 |
| 安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。 |
| 半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。 |
| 塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。 |
| 同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。 |
| 安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。 |
| 事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている安政4年8月17日付武市半平太書簡。 |
| 『坂本龍馬歴史大事典』p343入交好脩『武市半平太』p28-29。 |
| これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。 |
| 安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる松岡司『武市半平太伝』p27。 |
| 安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。 |
| 土佐藩士たちはこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士たちは変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった『維新土佐勤王史』p61-62飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123。 |
| 同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。 |
| 龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが『維新土佐勤王史』p63、その真意は西国諸藩の動静視察であった。 |
| 一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した『維新土佐勤王史』p63-66。 |
| この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている半平太会『維新土佐勤王史』p64。 |
土佐勤王党結成
| 文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。 |
| 半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した『維新土佐勤王史』p68-69入交好脩『武市半平太』p43。 |
| 土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうとの密約を交わした『維新土佐勤王史』p74『幕末土佐の群像』p62。 |
| 8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた『維新土佐勤王史』p70-72『幕末諸隊録』p60。 |
| 9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり松浦玲『坂本龍馬』p17-18、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。 |
| 加盟者の大半は下士・郷士・地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない入交好脩『武市半平太』p49。 |
| この頃の土佐藩は容堂の信任厚い参政吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。 |
| 故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。 |
| 10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。 |
| 山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した『維新土佐勤王史』p85。 |
| 半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。 |
| 長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった『維新土佐勤王史』p91-92。 |
| だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。 |
| 久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。 |
| 吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。 |
吉田東洋暗殺
| 半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派の連枝山内大学や山内兵之助、山内民部、家老の柴田備後・五島内蔵助らと気脈を通じるようになる『維新土佐勤王史』p113。 |
| 半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した『維新土佐勤王史』p113-114。 |
| これには来る4月12日に藩主・山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。 |
| 4月8日夜、藩主・山内豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げたうえで、刺客たちは逃亡脱藩した。 |
| 東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。 |
| この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに山内大学・山内下総と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。 |
| 12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている入交好脩『武市半平太』p69。 |
国事周旋と天誅
| これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、有馬新七ら過激攘夷派による挙兵の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じた。 |
| 4月23日に寺田屋事件が起きて薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。 |
| 過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職、松平春獄の大老就任による幕政改革を要求する。 |
| 4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた飛鳥井雅道『坂本龍馬』p162。 |
| 半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。 |
| 吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ『官武通紀』。 |
| 参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。 |
| この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。 |
| 8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた入交好脩『武市半平太』p81。 |
| 閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎・谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた松岡司『武市半平太伝』p76。 |
| 半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え松岡司『武市半平太伝』p78、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士たちと関わる一方、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも交際を深め、藩主・豊範の名で朝廷に建白書を提出すると共に、幕府に対して攘夷督促する勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。 |
| これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。 |
| この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた入交好脩『武市半平太』p87-95松岡司『武市半平太伝』p90-102。 |
| 半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩・田中新兵衛が有名である。 |
| 半平太が関与したとされる天誅には、土佐藩主上洛は自分の手柄だと吹聴していた越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。 |
| しかし、同月に関白・近衛忠熙が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。 |
| また、侍従・中山忠光から前関白・九条尚忠と岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている瑞山会『維新土佐勤王史』p178-182。 |
| 10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。 |
勤王党弾圧
| 勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主山内豊資(藩主豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。 |
| 文久3年(1863年)1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。 |
| 容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。 |
| 帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。 |
| 8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。 |
| 同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。 |
| 尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。 |
| だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。 |
| 7月に安芸郡で郷士清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人よって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。 |
| この頃より監察府の陣容が一新され、小笠原唯八・乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。 |
歿後
| 後に土佐藩は薩長とともに倒幕勢力の一翼を担うことになるが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり大政奉還を主導し、戊辰戦争で土佐藩兵を率いたのは乾退助(後の板垣退助)であった。 |
| 明治10年(1877年)に名誉回復され、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。 |
| 明治17年(1884年)に元土佐藩士・土方久元・田中光顕・佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。 |
| 翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立され、伝記は坂崎紫瀾が主筆となり20年余の史料収集・編纂作業を経て大正元年(1912年)に『維新土佐勤王史』が刊行されている。 |
| 明治39年(1906年)、当時宮内大臣に出世していた田中光顕が富子に援助の手を差し伸べ、田中をはじめとする瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され、武市家の養子の半太も医学の道に進むことができ、梼原村(現高知県高岡郡梼原町)で開業している松岡司『武市半平太伝』p361-364。 |
| また、朝廷から半平太に正四位が贈位された際、上京した富子を囲んで祝宴が開かれたが、かつて半平太に尋問し、最終的に切腹を申し渡した責任者である後藤象二郎と、同じく半平太に尋問した板垣退助から富子に対し、その席で「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。 |
テレビドラマ
| 『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:高橋英樹)。 |
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1726年
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郷士に取り立てられ、文政5年1822年には白札... |
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1841年
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一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ |
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