| しかし、全盛は退廃への第一歩でもある。 |
| 華々しい外征の成果と強大な権力は、彼に過大な自信と、絶対的な権威が脅かされる不安の両方をもたらしたと思われる。 |
| 次第に武帝に直言して諌めるものは遠ざけられ、華美な言葉で帝を礼賛する臣が武帝をとりまくようになる。 |
| 外征中に『史記』の著者である司馬遷が、知人であった李陵を弁護したことで死刑を命じられ、減刑の結果宮刑を受けた事件や、李陵の妻子を皆殺しにした事件は、後日李陵の無実も判明していることから、武帝の短気で独断的な性格を物語るエピソードとして有名である(司馬遷の項参照)。 |
| 財政面でも、外征や自身の不老長寿願望等から来る奢侈により財政の悪化を齎(もたら)し、その解決のため塩鉄の専売や、増税、貨幣改鋳も行なった。これらの負担により流民化する民衆が増え、各地に反乱を誘発させた。 |
| そして同じく後半期には各地で反徒や盗賊の横行が凄まじく、これに頭を抱えた武帝は酷吏という法律至上の官僚を要職に就ける。 |
| 父の代からの寧成、義縦、張湯、王温舒、杜周といった者たちが重用され、各地で取り締まりに当たった。 |
| この政策は悪い方面に作用した部分も多い。 |
| 酷吏の重用による厳罰主義は、とにかく多くの罪人を捕らえて処刑することが官吏の職務であるという風潮を生み、社会不安の根本原因である民衆の困窮への対策が軽視されたため、反乱や犯罪、農民の流民化は一向に収まらなかった。 |
| 取り締まりの効果が上がらないことに業を煮やした武帝は、反乱や盗賊が発生した地方の長官を厳しく罰することとしたが、これはかえって、罰をおそれた地方長官たちが、盗賊の横行や反乱を朝廷に報告しないまま放置するという事態を招く。 |
| さらに、王温舒などは自分の職権を乱用し、賄賂を請求したり、無実の人を処刑したり、罪人を要職に就けたりしていた。 |
| また、異母兄の趙の敬粛王の劉彭祖(生母は賈氏で、中山靖王劉勝の同母兄)も酷吏のような仕事を好んでやっていたと『史記』五宗世家に記されている。 |
| 極めつきが太子の反乱による混乱である。 |
| 老いにより感情的に不安定になり、迷信深くなった武帝は、神仙思想に傾倒するとともに誰かに呪われているという強迫観念をつのらせ、江充を信任してその探索を命じる。 |
| 江充は当時皇太子であった戻太子に恨みを買っていたため、武帝死後に戻太子に誅殺される事を恐れ、武帝を呪い殺そうとしているという疑惑を戻太子に被せて殺そうとした。 |
| 進退窮まった太子は江充を殺し囚人を武装させて挙兵するが、武帝は丞相劉屈氂に鎮圧させた。 |
| 太子は逃亡したが、後に自殺したとも、殺害されたとも言われる(巫蠱の獄)。 |
| 武帝の治世下では誰かを呪い殺そうとしたという罪により処刑された者が多かった。 |
| 当時の呪いは、巫蠱(ふこ)の術と呼ばれ、人形に呪いたい相手の名前を書き込み、土に埋めるというものだった。 |
| この「人形を使う」というところが要所で、証拠の捏造が容易であったため、政敵を陥れたい者や取り締まりの実績を上げたい官吏がこれを悪用することが多く、巫蠱の罪で処刑された者の多くは冤罪だったのではないかと言われる。 |
| 前出の戻太子の事件のほか、丞相の澎侯・劉屈氂(武帝の甥で、中山王・劉勝の子)はその嗣子の妻が弐師将軍・李広利の娘だったために、李広利の妹が産んだ昌邑王・劉髆を太子にすべく巫蠱を行った。 |
| それが仇となり、劉屈氂と李広利の一族は誅殺され、外征中だった李広利は匈奴に投降したものの政敵に殺害されたという。 |
| その後、長い間に皇太子の座は空白だったが、晩年に至り末子の弗陵(後の昭帝)を皇太子とし、霍光・金日・上官桀の三人に後を託し、直後に死去した。 |