| 1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に滋賀県全県区で保守系無所属で立候補し(選挙期間中に自民党公認となり)当選、国政へ進出(同区で自身が最初に知事選出馬した際の支援者たる民社党新人川端達夫も当選)。 |
| 自民党では、福田派-安倍派-三塚派に所属する本当は最大派閥田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居た為、同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友安倍晋太郎に武村を紹介した。 |
| 即ち隠れ竹下派。 |
| 田中秀征、鳩山由紀夫、簗瀬進ら、三塚派の若手を中心に政策集団「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた。 |
| なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。 |
| 1993年6月18日、宮澤喜一を首班とする宮沢内閣不信任案可決に伴う衆議院の解散いわゆる「嘘つき解散」。 |
| ただし、武村自身は不信任案に対して反対票を投じており、決議の時点では造反していなかったを機に、同年6月21日、10人の自民党議員とともに自民党を離党、「新党さきがけ」を結党し、党代表に就任。 |
| 同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。 |
| 衆院選翌日の7月19日には、知事時代から親しい関係にあった細川護煕の日本新党と、院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し、細川とともに共同代表となる。 |
| 衆院選後の政局で日本新党と共にキャスティング・ボートを握り、後藤田正晴を中心とする自民党内政治改革推進派と提携しようとするが、同年8月9日、新生党の小沢一郎代表幹事の工作によって、細川を首班とする非自民連立政権、細川内閣が誕生。 |
| 武村は内閣官房長官に就任した。 |
| 連立政権の中では、細川の女房役として、連立政権のキーパーソンに一躍浮上した武村は、対国民的には「ムーミンパパ」の愛称を認知させることでソフトなイメージを出すことに成功。 |
| 政治改革やコメ自由化などで細川政権を閣内から支える一方で、閣外の意思決定機関「与党代表者会議」を主宰する小沢と対立することで自分を際だたせることに成功するなどしたたかな政略を見せたため、欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ、三木武夫以来の「バルカン政治家」とも称された。 |
| ただし、自分の意見が通らないと、マスコミに対し細川との不和を漏らすなど、結果的に細川政権の不安定要因を作り出していたことも事実で、細川は当初、連立内閣を小沢と武村のバランスに立って運営していたが、次第に小沢に傾斜する。 |
| 官邸主導の政治を目論む内閣官房長官の武村は、与党代表者会議を牛耳る小沢や公明党書記長の市川雄一、所謂一一ラインと激しく対立した。 |
| また細川が消費税を廃止し、新たに税率7%の福祉目的税を創設する「国民福祉税」構想を唐突に発表した際、武村が「過ちを改めるにしくはなし」と発言し、細川との間は急速に冷却化していった。 |
| 岩上安身 |
| 1994年4月8日、細川政権の崩壊直後、「さきがけ日本新党」は解消され、日本新党と新党さきがけの合流は構想倒れに終わった。 |
| 1994年4月28日発足の羽田孜を首班とする羽田内閣の成立に当たっては、閣外協力に転じ、院内会派「改新」には参加しなかった。 |
| この間、水面下で自民党と、連立から離脱した社会党と交渉を重ね、同年6月24日に自社両党と連立を組み、翌日6月25日、羽田内閣は総辞職。 |
| 6月30日、村山富市を首班とする自社さ連立内閣(村山富市内閣)を成立させる。 |
| 武村は大蔵大臣に就任し、1995年の村山内閣改造内閣でも留任する。 |
| 同年11月において、大蔵大臣として「日本財政危機発言」を行う |
| このとき日本の国債発行残高は458兆円(IMF数値)であった。 |
| 政界再編のキーマンであった武村が連立政権で蔵相に就任したことは違和感なく受け入れられたものの、バブル崩壊の後始末を巡って深刻化する金融情勢に、必ずしも財政や金融政策に精通しているわけではなかった武村は実効性のある対策を打てなかった。 |
| 1995年9月、蔵相在任中ながらフランスの核実験再開及び核実験実施に対するタヒチでの抗議デモに参加した。 |
| 新党さきがけの党運営については、やがて、新党さきがけの代表幹事だった鳩山由紀夫との間で、社会党との新党、「社さ新党」構想をめぐり対立が表面化。 |
| 1996年8月28日、代表を辞任。 |
| 同年9月28日には鳩山、菅直人、簗瀬らが新党さきがけを離党し、民主党を結成。 |
| 民主党の結成に際しては新党さきがけ全体での合流を希望したが、鳩山らは「排除の論理」でこれを拒否した。 |
| 8月28日の代表辞任後、井出正一が後任の代表となるが、新党さきがけは閣外協力の形で自民党政権を支えたものの、党勢の退潮に歯止めが効かず埋没。 |
| 1998年5月31日、代表に復帰。 |
| 同年6月、自民党との連立を解消し、環境政党としての再出発を表明、同年10月、党名を「さきがけ」に改称し事実上解党する。 |