| 中央の戦乱を逃れて、江東に移った。 |
| 貧しかったため、若い頃は昼は瓜を売って生計を成し、夜は勉学に励んでいたという。 |
| このときに行動を共にしたのが広陵の衛旌という人物であった。 |
| あるとき生計を図るために会稽の焦征羌(焦矯、『呉録』)という豪族に取り入りざるを得なくなった。 |
| 焦征羌は歩騭達を見下しぞんざいに扱ったため、衛旌は屈辱で憤慨したものの、歩騭は平然と応対したという。 |
| 官に就いた後、一年ほどして病気で免職となったが、親友である諸葛瑾や厳畯とともに呉郡に出てきたという(『呉書』)。 |
| 孫権が討虜将軍となり幕府を開くと、歩騭は召しだされ主記となった。 |
| 海塩県の長とした。 |
| 車騎将軍になると召し返し、東曹掾とした。 |
| 『呉書』によると、孫権が徐州の牧となったとき、治中従事となり、茂才に推挙されたという。 |
| 時期は不明だが、鄱陽の不服住民の彭虎の討伐に董襲、淩統、蒋欽と共に出陣してもいる(「董襲伝」)。 |
| 210年には新設された鄱陽(鄱は番に「おおざと」)郡の太守に任命されたが、まもなく交州刺史に抜擢され、立武中郎将とし、武装した役人を千人ほど引き連れて任地に向かった。 |
| 211年には使持節、征南中郎将となっている。 |
| 当時の交州は、元々劉表の配下だった蒼梧太守の呉巨と、曹操と通じ事実上交州の支配者として君臨していた士燮達の一族が割拠していた。 |
| 呉巨は同じく劉表が任命していた交州刺史の頼恭を追放し、孫権を後ろ盾として自立しようとしていたが、歩騭は呉巨を信頼せず、表面的は友好的に接した上で会見の場で謀殺した。 |
| これにより歩騭の威名が鳴り響くようになると、士燮一族も呉に従属するようになった。 |
| 士燮を通して益州南部の豪族である雍闓が、太守の正昂を殺害して呉に誼を求めてくるようになると、歩騭は孫権に取り成しを約束し、その服従を受け入れた。 |
| その功績で平戎将軍を加官され、広信侯に封じられた。 |
| 220年、交州刺史の任務を呂岱と交代することになり、新たな任地である長沙に向かったが、交州の人に慕われ随行者は一万人ほどになったという。 |
| そのころ、劉備が呉を攻撃し(夷陵の戦い)、隣接する武陵の蛮族もそれに呼応して不穏な動向を示しつつあった。 |
| 歩騭は孫権の命令で蠢動する武陵の異民族を益陽で牽制する役目を担い、劉備が敗北し呉が勝利した後も服従しない異民族の平定に尽力した。 |
| 223年、右将軍左護軍となり、臨湘侯に封じられた。 |
| 226年には節を与えられ、漚口に駐屯した。 |
| 229年に孫権が皇帝に即位すると、驃騎将軍、冀州の牧となり、同じ年に陸遜に代わって西陵都督(西陵はかつての夷陵)に任じられ、その地に赴任した。 |
| 直後、呉蜀の同盟により、冀州の牧は罷免されている。 |
| 驃騎将軍になった後、軍勢の強化のため私兵を募ることを孫権に申し入れたところ、武昌において荊州の軍政を陸遜と共に預かっていた潘濬から警戒されたため、許可されなかったという(「潘濬伝」が引く「呉書」)。 |
| また、時期は不明だが張昭の甥の張奮という人物を推挙し軍事に携わらせたところ、張昭はこれを喜ばなかった(「張昭伝」)。 |
| 孫権の太子である孫登は陸遜達の輔佐を受けて武昌で政治に携わっていたが、あるとき歩騭に荊州の人物について意見を求めたところ、歩騭は諸葛瑾、陸遜、朱然、程普、潘濬、裴玄、夏侯承、衛旌、李粛、周条、石幹など荊州で功績を挙げた呉の人物を11名ほど列挙した後、斉や前漢での事例を挙げて賢人を用いるよう忠告した。 |
| 238年には一族で孫権に寵愛されていた歩夫人が死去し、皇后を追贈された(「呉主伝」)。 |
| 孫権が張昭の死後、判断力が衰え呂壱のような奸臣を登用するようになると、歩騭は丞相の顧雍や太常の潘濬、それに諸葛瑾や陸遜達の忠言に耳を傾けるするよう孫権を熱心に説得し、孫権も後に真相を悟り呂壱を誅殺し、群臣に詫びた。 |
| 孫権にまた以前のように輔佐してくれるよう求められると、当初は民政は担当外だとして、諸葛瑾、呂岱、朱然といった他の外鎮の将軍達と同様にこの要請を黙殺したため、孫権に以前のように輔佐してくれるよう嘆願されている(「呉主伝」)。 |
| 歩騭は呂壱事件のとき以前にも、孫権にたびたび上奏し、日の目を見ずにいる者を救ってやったことがあったとされる。 |
| ただし、孫権にすべてが聞き入れられたわけではなく、『呉録』には、降伏者からの情報で魏が大江をせき止めて呉を討つ計画があると聞き、上奏した上で孫権に対処を求めたところ、孫権に非現実的だとして一笑に付された話が掲載されている。 |
| 239年には諸葛瑾とともに、周瑜の子で229年に罪を得て遠ざけられていた周胤の赦免を孫権に嘆願した。 |
| 朱然や全琮も同調したため、孫権もその熱意にほだされ周胤を許す気になったが、周胤は既に没していたため、周家の復興は果たせなかった(「周瑜伝」)。 |
| 241年の孫権の大規模な北伐(芍陂の役)にも、干宝の『晋紀』によると参戦していたという(魏志「三少帝紀」に引用)。 |
| 諸葛瑾ともに荊州方面に出撃し、柤中を占拠したが、荊州と揚州の両方の戦線が膠着すると撤兵している。 |
| 243年頃から、太子の地位を巡って孫和と孫覇が争うようになると(二宮事件)、歩騭は全琮達とともに孫覇を支持し、孫和を支持した陸遜達と対立したという(「呉主五子伝」が引く『通語』)。 |
| しかし、歩騭伝や他の伝においては具体的な動静は何一つ伝わっていない。 |
| 244年、朱然とそれぞれに上奏し、蜀の動静が不穏であるから、蜀の寝返りに注意するよう孫権に促したが、孫権には聞き入れられなかった(「呉主伝」)。 |
| 245年に丞相の陸遜が憤死すると、246年にその後を受けて丞相に就任した。 |
| 丞相になっても、質素な生活を送り、自身の勉強と子弟の教育に没頭したが、妻子には贅沢をさせていたため批判されたという。 |
| また、西陵での駐屯期間は20年にも達し、その威信には敵からも敬意を払われたという。 |
| 247年に死去した。 |
| 跡は長子の歩協が継ぎ、その跡は爵位は孫の歩璣が継いだが、軍事的な職務の継承は次子の歩闡が務め、引き続き要衝の西陵の軍事を任された。 |
| 272年、歩闡は孫皓の暴政に不安を感じ、西陵で城ごと晋に降伏し、呉に対して反乱を起こした。 |
| 歩闡は数ヶ月に渡って籠城するが、頼みにしていた晋の援軍が陸抗によって大敗し、結局鎮圧された。 |
| 人質として晋に渡っていた孫の歩璣達を除いて一族皆殺しとなった。 |
| 歩騭は博学多才で知られた。 |
| また、性格も冷静沈着な反面、人当たりの良い一面があった。 |
| 人物眼にも優れ、孫権に多くの有能な人物を推挙した。 |
| 頴川の周昭は歩騭、諸葛瑾、厳畯、張承、顧邵と人物を比較、賞賛する書物を残した。 |
| 陳寿も周昭の評価を引用しそれに同意を示している。 |