| 天文15年(1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して第53代毛利家当主となる。 |
| 但し、これは元就が後方で謀略活動をおこないやすくするための一種の儀式であるとの見方が強い。 |
| 事実、元就は隠居後も毛利家の実権を掌握しており、隆元は依然として元就麾下の一武将の扱いであった。 |
| 一般には元就が正式に隠居表明したのは弘治3年(1557年)であるとされているが、隆元に毛利家の実権が移譲されることはなかった。 |
| またこの頃から、元就の要請により老臣・志道広良が隆元の訓育にあたるようになった。 |
| 隆元は穏和で教養豊かな文治の将として名高かったが、反面、武将としての気概や機転に欠ける部分があったため、それを心配した元就や広良から再三にわたって訓戒されることとなった。 |
| 広良が残した「君臣は水と船の如く」という言葉は、この時期に発せられたものとされる。 |
| また、元就からは書状で「能や芸や慰め、何もかも要らず。 |
| ただ武略、計略、調略が肝要に候。 |
| 謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と度々叱責されている。 |
| また元就のこの言葉から、当時の隆元は義隆の影響か文芸遊興に時間を費やすことが多かったことが窺える。 |
| 天文18年(1549年)、大内義隆の養女で大内氏の重臣・内藤興盛の娘と結婚する。 |
| 後にこの女性は隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から「尾崎局」と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む1男1女に恵まれる。 |
| 隆元はこの女性を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。 |
| (また弟の元春、隆景も生涯側室を迎えていない)戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。 |
| 翌天文19年(1550年)、父・元就の主導の下、専横甚だしい井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害された。 |
| その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足した。 |
| 隆元側近の赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相、粟屋元親、元就の側近であった児玉就忠と桂元忠も参画した。 |
| この組織の創設に隆元は大いに貢献したとされるが、主導権を握っていたのはやはり元就であった。 |
| またこの五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営が上手くいかず、元就も隆元も頭を悩ませた。 |
| しかし、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の御家訓に収録され(後述)宗家運営の模範とされるのである。 |
| 天文20年(1551年)、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、いずれ陶氏は毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した(恩顧ある義隆を殺された義憤に駆られたという説もある)。 |
| しかし、元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。 |
| そこで隆元は重臣達を動かして元就に翻意を促すべく、家中に陶氏の横暴無慈悲ぶりを喧伝して回った。 |
| その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決を決めることとなる但し、元就はかなり以前から陶との断交、大内の併呑を決めていたとされる。 |
| 隆元の強硬策に敢えて反対したのは、家中に陶氏の恐怖を浸透させて意見の一致を図るのと共に、陶方に「毛利は意見の統一ができていない」と思わせて油断させるための謀略だったのではないかと言われている。 |
| 弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。 |
| 隆元は元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した。 |
| また、暴風雨に怯えて渡海に反対する将兵らを奮起させるため、隆元は元就の制止を振り切って自ら先立って船に乗り込んだといわれている(当初、元就からは従軍・渡海を拒絶されたが、隆元は「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか」と嘆願して同行を許可されたという逸話がある)。 |
| 弘治3年(1557年)、父の隠居により、家督を継いで毛利家の当主となる(天文15年相続説があるのは先述の通り)が、実権は隠居した元就が引き続き主導していた。 |
| これは、毛利家を覆う事情が依然として険しかったという理由もあるが、自分の器量に自信が持てない隆元が、実権の移譲を辞退したためともされる。 |