| 幼少の頃に父を亡くし弟の昭二(元十両13・梅の里)とともに母1人の手で育てられた。 |
| 茨城県水戸市立飯富中学時代には母の勧めで柔道に打ち込み初段になる腕前の持ち主だった。 |
| 1977年の暮に力士のサイン会に行った。 |
| 本人は貴ノ花のサイン会だと思っていたそうだが実は高見山と富士櫻のサイン会だった。 |
| この時髙見山に「大きねーお相撲さんにならないかい」と勧誘される。 |
| 数日後には高砂親方からも勧誘され、入手困難だった29cmの靴をもらって入門を決めた。 |
| 水戸泉の四股名は出身地の水戸、本名小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて髙砂が命名した。 |
| 部屋の同期生に長岡(元大関・4代朝潮、幕下付出)がおり、彼から手ごろな稽古相手と目をつけられていた。 |
| 大学相撲の超エリートであった朝潮との稽古は、中学卒業間もない少年にはつらいものだったが、これが後々の財産にもなった。 |
| 朝潮とのエピソードは数多く残り、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっている。 |
| 新十両の場所の8日目から付人の奄美富士の進言により大量の塩を撒くようになった。 |
| 初めの頃は1回目から大きく撒いていたが後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになった。 |
| 1回にとる塩の量は何と600gにもなったという。 |
| イギリス巡業で「ソルトシェイカー」と紹介され、日本でもあだ名として定着した。 |
| 塩を撒いた後に顔、まわしを叩く仕草も有名である。 |
| 同様に大量の塩を撒く力士には朝乃若がおり、対戦した際には豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の両者の塩撒きに観客が沸いた。 |
| また、両者はどちらも黄色系の回しを締めていた時期がありその興味でも沸いた。 |
| 一方でこれは制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返していることでもあって、批判されることも多かった。 |
| 貴闘力、浪ノ花ら時間前でも立っていく力士との対戦で興をそぐことも多かった。 |
| 1984年9月場所新入幕、しかし1985年5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越してに十両に陥落。 |
| この事故がきっかけで十両以上の力士の自動車運転が禁止され、現在に至る(ただし免許の更新は禁止されていない)。 |
| 1986年3月場所再入幕、12勝3敗で敢闘賞、5月場所は負け越したが7月は10勝5敗、9月場所は関脇になった。 |
| しかしこの場所大乃国との対戦で左膝を負傷、3場所連続休場で十両に落ちた。 |
| 1988年3月場所再入幕。 |
| 9月場所には小結で10勝5敗。 |
| 当然大きな飛躍が期待されたがまたしても大乃国との対戦で左足首に負傷。 |
| 十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しまされることになった。 |
| その後も平幕上位から関脇での活躍が続くが1990年後半は低迷。 |
| 1991年3月場所から7場所連続で勝ち越して1992年3月場所には小結に帰って8勝7敗。 |
| 1992年5月場所は7勝8敗と負け越したが、続く7月場所では前頭筆頭に下がった水戸泉は快進撃で白星を積み重ねていく。 |
| 優勝争いの単独首位を走り14日目に勝って12勝2敗、3敗で追う小錦、霧島、武蔵丸の全員が負けて優勝が決まった。 |
| 一応優勝決定の可能性があるため、支度部屋で待機していたがまさか三役陣が総崩れとは思わず、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「嘘っ!?」と言った後に弟の梅の里と抱き合って涙ぐんだ。 |
| 当時の高砂親方である富士錦の現役時代、1964年に優勝した時と同じ尾張名古屋の土俵だった。 |
| 千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。 |
| 優勝パレードでは当時まだ大関だった小錦が優勝旗の旗手を務めた。 |
| 大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と多くの批判を浴びたという。 |
| しかし小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年夏場所)では曙の旗手までさせてしまった。 |
| 水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」と小錦が恩返しの意味で自分から願い出たことだった。 |
| 小錦の人情味とともに水戸泉の人柄を物語る逸話である。 |
| 翌1992年9月場所は当然関脇、ここでも勝ち越して7月場所の優勝が本物であることを印象付けた。 |
| 1992年11月場所は成績次第では大関取りだったがまたしても左足の負傷で平幕に下がる。 |
| 1993年より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名する。 |
| しかし膝の故障が多発して三役には復帰できなかった。 |
| 1999年5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。 |
| その後もしばらく現役を続け、蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、2000年9月場所を最後に引退、年寄・錦戸を襲名した。 |
| 幕内在位79場所で休場が99回は、横綱・大関を除けば過去最多の休場数であった(横綱大関を含めた最高は貴乃花光司の201)ため、「怪我のデパート」などと言われた。 |
| 一時は高砂部屋の後継者に指名されたが、婚約破棄問題で辞退した。 |
| 2002年に高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を設立した。 |
| 部屋の玄関の横には本人の優勝額が掲げられている。 |