| 1938年、同じく転向者で、その後も水野の片腕として行動を共にする南喜一が米糠を媒体に使い、新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込む松浦行真『人間・水野成夫』サンケイ新聞社出版局1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁桜田武・鹿内信隆共著『いま明かす戦後秘史』(上巻)、サンケイ出版、1986年、71-76頁大宅壮一『大宅壮一全集第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁 |
| 陸軍軍事課長・岩畔豪雄は、国策としてパルプ自給をはかるという計画を持っていたため1938年、日清紡績社長・宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた後、若い南と水野を見込み、元共産党員では、という周囲の反対をはねつけ1940年、二人に国策パルプ工業の全額出資で別会社・大日本再生製紙を作らせた鹿内信隆『泥まみれの自画像』(上巻)、扶桑社、1988年、85-89頁。 |
| 南と水野を最初に見出したのは岩畔である。 |
| 大日本再生製紙の実務は、この二人と篠田弘作を加えた三名で主に行う。 |
| 鹿内信隆はこの時の陸軍の担当事務官(需品本廠監督官)鹿内信隆『泥まみれの自画像』(上巻)、扶桑社、1988年、85-89頁。 |
| 太平洋戦争開戦後に岩畔がインド独立工作に関わるため、水野は岩畔に招かれ同工作に関与した岩井忠熊『陸軍・秘密情報機関の男』新日本出版社、2005年、134-138頁。 |
| また大日本再生製紙設立時に宮島清次郎と師弟関係になったことで、戦後に政財界に強い影響力を持つことになる松浦行真『人間・水野成夫』333-334頁。 |
| 大日本再生製紙は1945年に国策パルプと合併し、常務取締役。 |
| 1946年、現在も続く出版社酣燈社を文芸・学術専門の出版社として創業するが、数年で手を引き、酣燈社は後に航空関係専門の出版社となった。 |
| 同1946年、経済同友会幹事となる。 |
| 終戦後の労働攻勢の中で左翼運動に身をおいた経歴を持つ水野は、労働対策を担当し、財界首脳の信頼を得た。 |
| 本業の国策パルプにおいても1948年に専務取締役、1949年副社長、1951年11月に社長就任。 |
| 1960年会長に就任。 |
| 1956年、民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。 |
| これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。 |
| 文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。 |
| 「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評される。 |
| 1957年に経団連理事に就任。 |
| ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任。 |
| 1958年には前田久吉から産経新聞社を買収して社長に就任。 |
| 在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為「マスコミ三冠王」と呼ばれるとともに、のちのフジサンケイグループの土台を築いた。 |
| 水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。 |
| 新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。 |
| また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し(この結果、組合は日本新聞労働組合連合より脱退)、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。 |
| このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」とか「水野天皇制」と言われた。 |
| しかし、産経新聞そのものは、水野社長就任1年で黒字に転換し、フジサンケイグループの強固な基盤が確立されたとされる。 |
| 1960年には森喜朗が入社する際に口利きを行なった。 |
| 1965年産経新聞社会長に就任。 |
| 池田勇人内閣時代に「財界四天王」の一人と称されるようになる。 |
| 政商のイメージが強い水野であったが、政治に関してはかつて共産党に身を置き挫折したことから、「政治は、ワンストライクアウト。 |
| 共産党でアウトになった。 |
| もう絶対やらん」と語っていた。 |
| 自由奔放な性格で、共産党員、翻訳家、財界人と三段跳びの人生から人物評が定まりにくい人物であった。 |
| 文化的活動も支援し、1956年、文化放送の傍系事業として日本フィルハーモニー交響楽団を結成。 |
| また、1963年の日本近代文学館の創設にも尽力した小田光雄『古本探求2』(論創社)より。 |
| その一方で野球をこよなく愛し、1953年に日本生産性本部第二回欧米使節団に参加中、風邪と称してナショナル・リーグの観戦に出かけたり、1965年に日本国有鉄道(およびその関連会社)から国鉄スワローズを買収して、サンケイアトムズ(現、東京ヤクルトスワローズ)の経営を手がけたりした。 |
| 生前の水野は『男と生まれたからにゃやってみたいものが三つある。 |
| それは聯合艦隊司令長官、オーケストラの指揮者、そしてプロ野球の監督だ』と語ったことでもまた有名である。 |
| 1970年勲一等瑞宝章を受章。 |
| 1972年5月4日死去。 |