| 池田高校で優勝した際、テレビで同校の特集番組が組まれた。 |
| 当時蔦文也監督の指導により、選手の上半身強化が徹底されており、水野が重いバーベルを軽々持ち上げ、後輩部員に「これぐらい持てんとホームラン打てへんのやでぇ」と豪語したり、練習終了後は近所のドライブインで、牛ステーキ、豚カツ食べ放題と言い放つ姿が放送された。 |
| 水野は池田野球について以下のようにインタビューで答えている。 |
| 池田の練習は毎日授業を終えた15時から3時間、みっちりバッティング練習をして、残り30分だけノック(守備練習)。 |
| キャッチボールする時間は無駄だ、とウォーミングアップもしないで、いきなりフリーバッティングが始まり、守りに付いた野手が1塁へ投げて肩を作れ、と。 |
| また「当時は金属バットが導入されて8年目ぐらいの頃で、ウェイトトレーニングを取り入れている学校はあまりなかったと思いますが、僕らは積極的に取り入れて打撃を強化していました。 |
| 特に冬場はよくやりました。 |
| また毎日、野球部寮の裏手にある後援会副会長が営むレストランで、当たり前のように食べたいだけ肉を食べさせてもらっていました。 |
| それで良質な筋肉が作られていったと思います。 |
| 蔦さんはいろんなことにチャレンジする監督で、ちょうど地元の企業だった大塚製薬がポカリスエットを販売し始めた頃で、僕らはモデル校みたいな感じで練習中にポカリスエットや試供品のカロリーメイトを体にいいからと飲まされていました。 |
| バットに関しては、社会人野球のチームだったと思うんですが『凄く打球音がよくて飛ぶバットだ』ということでいち早くゼットパワーを取り入れて、結果的に強力打線を生み出しました」 |
| 第64回大会での全国制覇については「決勝で昔ながらの緻密な野球をする広島商業を相手に12-2の大勝だったので、余計にみなさんは『強打・池田』の印象を強くし「新しい時代の流れを感じた」とよく言ってくれます」。 |
| 早稲田実業戦については「池田の紅白戦は畠山準さんと僕が投げていたのでチームメイトも荒木大輔さんのストレートが速いと感じなかったはずです。 |
| 僕は畠山さんを目標として努力していただけに、荒木さんより畠山さんの評価が低いというのが、どうしても許せなかった」。 |
| 第65回大会については「3回戦の広島商業戦で頭にデッドボールを食らって、その後はあまり覚えていないんです。 |
| 準決勝の相手PL学園は完全にノーマークで、ここは流して、いざ決勝という慢心があった。 |
| でも今考えれば、いい相手に負けましたよ。 |
| 野球の神様が流れを作っているんだろうとすごく感じた。 |
| KKコンビのPL学園が勝ち続けたことによって、より池田の輝きは増したと思いますから」「高校を卒業して四半世紀以上が経つというのに甲子園関連の取材がない年はありません。 |
| 改めて池田はそれだけ強い印象を残したチームだったんだなあと思うんです」などと話している。 |
| 現役時代の1985年に門限過ぎの飲酒を『フォーカス』に掲載された。 |
| 故障療養中でしかも未成年の時点での不祥事ということもあり、謹慎処分を受けた。 |
| この時に槙原寛己は何度か「おーい、生きてるか?」と茶化した。 |
| 水野より1歳上で同じく高校3年で読売ジャイアンツにドラフト1位で指名されプロ入りした斎藤雅樹は1989年、1990年連続20勝記録したが、両年とも20勝目を挙げた試合は水野がセーブを記録した。 |
| 入団当初はワールドペガサスの用具を使用していたが、のちに名前と同じミズノに替えている。 |
| 1990年5月24日のナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で槙原がバンス・ローに頭部付近投球を与えた際乱闘になり、その際中日星野仙一監督が水野に罵声を浴びせられたとの理由で憤慨し、星野に大声で呼びつけられた後、顔面を殴打された。 |
| 投手コーチ時代、年上の現役選手工藤公康からは「水野ちゃん」と呼ばれていた。 |
| 同じく年上の槙原は茶化す意味でワザと「水野コーチ」と呼んでいた。 |
| TVなどの解説活動での一人称は主に「私」と称するが、「わたし」ではなく「わたくし」と呼んでいる。 |
| 地声が低く抑揚が乏しいことから、解説中に不機嫌であると視聴者に誤解されることがある。 |