| 1947年(昭和22年)末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカに名の通った存在でなくてはならない事を痛感。 |
| 当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであった事から、永田もプロ野球チームを持つ事を決意する。 |
| これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同志が姉妹だった側近の武田和義関三穂『プロ野球史再発掘5』、P258-267。 |
| 1948年(昭和23年)中日ドラゴンズの赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した関三穂『プロ野球史再発掘5』、P258-267。 |
| 小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している関三穂『プロ野球史再発掘4』ベースボール・マガジン社、1987年、P25、26。 |
| 間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収。 |
| この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。 |
| 1948年(昭和23年)1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させたもの(関三穂『プロ野球史再発掘5』、P232、262)。 |
| 、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。 |
| 以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。 |
| 高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。 |
| その後、大映は1957年(昭和32年)に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった後、1958年(昭和33年)に毎日オリオンズと合併し、大毎オリオンズとなった。 |
| この時は毎日新聞社との共同経営ではあったが、オーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。 |
| その2年後の1960年(昭和35年)、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズで三原脩監督率いる大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って西本幸雄監督と意見が衝突。 |
| 前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した(詳細は西本幸雄#大毎監督辞任を参照)。 |
| このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。 |
| 自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。 |
| だが、チーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせて現場への介入も多かったため、批判も受けた。 |
| 一方、球場に作った神棚に選手の無事を祈っての合掌を欠かさなかったなど、チームに対する思いは確実にファンなどに届いていた。 |
| 1962年(昭和37年)には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京球場を建設、その開場セレモニーでは観客に対し「皆さん、パ・リーグを愛してください!」と絶叫。 |
| しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ巨人。 |
| セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。 |
| 1969年(昭和44年)、遂に経営難で盟友・岸元首相の仲介によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズが、翌1970年(昭和45年)、パ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めたとき、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田オーナー万歳」「パ・リーグ万歳」の喝采と共に優勝監督や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客達は選手を片端から胴上げして回った)。 |
| 1971年(昭和46年)、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。 |
| 中日ドラゴンズとの日本シリーズ初戦、スタンドにはすでに完全に表舞台から姿を消していた永田の姿があった。 |
| グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要、近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。 |
| 1988年(昭和63年)、野球殿堂入り。 |