| 明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。 |
| 明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。 |
| 大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。 |
| しかし江藤はこれには全く耳を貸さず翌13日に船便で九州へ向かう。 |
| 江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。 |
| この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。 |
| もちろんこの時点では佐賀側では蜂起の決起さえ、いやそれどころか江藤は佐賀に入国さえしていなかったことに留意する必要がある。 |
| 江藤は完全に大久保の掌中にあったといえるだろう。 |
| 2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い12日、佐賀征韓党首領として擁立された。 |
| そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。 |
| 2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱が勃発する。 |
| 佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。 |
| しかし、やがて大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着した。 |
| 佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。 |
| 政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。 |
| 朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。 |
| また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。 |
| しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。 |
| この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。 |
| 江藤は征韓党を解散して脱出し、3月1日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。 |
| 続いて3月25日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。 |
| このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。 |
| しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。 |
| 手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので制定者本人が被適用者第1号となった。 |
| 4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれることとなった。 |
| 敏鎌は訊問に際し江藤に対し恫喝しようとしたが、江藤に「敏鎌、それは恩人に対する言葉か!」と一喝され恐懼し、それ以後自らは審議に加わらなかった。 |
| 4月13日に河野により、除族の上梟首の刑を申し渡された礼遇の慣習により武士に対しては梟首にすることは出来なかったため、まず士族の地位を剥奪する必要があった。 |
| 判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれたため転んだ。 |
| この姿に対して、気が動転し腰を抜かした、と悪意ある解釈を受けた。 |
| しかし刑場では、落ち着いて山中一郎や香月経五郎らに微笑して挨拶したといわれている。 |
| 処刑直前、「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と三度叫んだといわれている。 |
| その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された大久保利通は日記(4月13日付)において、江藤について「江藤、醜態、笑止なり」と記している。 |
| 辞世は「ますらおの涙を袖にしぼりつつ迷う心はただ君がため」。 |
| 明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。 |
| 大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。 |
| 墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。 |
| 墓碑銘は書家としても知られる副島種臣が手がけた。 |
| 同市の神野公園には銅像もある。 |