| 銀行員江頭隆、廣子の長男として東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)に生まれる。 |
| 1937年、4歳半の時、母を結核で失う。 |
| 1939年、戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる。 |
| 自宅の納戸に逃避して、谷崎潤一郎や山中峯太郎や田河水泡を愛読。 |
| 「学校のない国に行けたら」と夢想した。 |
| 1942年、神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校してから学校が好きになり、成績が上昇。 |
| 1946年、神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学。 |
| 1級上に石原慎太郎がおり、石原との交際は生涯続いた。 |
| 1945年5月、空襲にて東京大久保の生家が焼失。 |
| 亡母の遺品がなくなったことを悲しむ。 |
| 1948年、旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校。 |
| 古書店で伊東静雄の詩集『反響』に出会ったことが、文学の道に進むきっかけとなる。 |
| 在学中はベレー帽を被るなど、ちょっと斜に構えたところもあった。 |
| 在学中、学制改革に遭う。 |
| 1951年、健康診断で肺浸潤が発見され、高校休学して自宅療養する。 |
| フョードル・ドストエフスキー、谷崎潤一郎、福田恆存、大岡昇平などに読みふける。 |
| なお、高校では優等生だったが、数学だけはまるで駄目だったという。 |
| 1953年、東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗、慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む。 |
| 日比谷高の教師から「慶應は経済学部かね。 |
| なに、文科?君も案外伸びなかったね」とあからさまに軽侮されたため、以後二度と日比谷高の門をくぐるまいと誓った。 |
| ただ晩年は、日比谷高校のOB講演会「トワイライトフォーラム」の講演を引き受けるなど、そのことは、自己の内面では既に氷解していたようである。 |
| なお慶應入学前後に福沢諭吉を読んで感銘を受け心酔、福沢は主著『作家は行動する』において重要なモチーフとなっている他、度々福沢について論じた。 |
| 以後も母校慶應には愛着を隠さず、教授として招聘された時の喜びを後に素直に語っている(『国家とはなにか』)。 |
| 1954年4月、専門課程への進学に際して英文科を選ぶ。 |
| 吉田健一『英国の文学』の影響が大きい。 |
| 1954年6月、喀血して自宅で療養。 |
| 1955年、当時の編集長だった山川方夫の依頼で『三田文学』に「夏目漱石論」を発表。 |
| 初めて江藤淳を名乗る。 |
| 1957年3月、慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業。 |
| 卒業論文のテーマはローレンス・スターン。 |
| 同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む。 |
| 指導教授西脇順三郎からは嫌われていた。 |
| 西脇は、江藤の姿を教室に認めるや「今日は江藤君がいるから授業しない」と宣言したこともあった。 |
| 後年、先輩の安岡章太郎から「慶子さんと付き合うためにわざと東大に落ちたんじゃないか」と揶揄されたが、江藤は「ぼくは真面目に受けて落ちたんですよ」と答えた安岡章太郎「<落第>この青春の予期せぬバカンス」(『驢馬の学校』所収)pp.15-16。 |
| 1958年、大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を稼いでいたことが教授会から問題視され、退学を勧告されたが、授業料のみ納入し、抵抗の意味で不登校を続ける。 |
| 同年11月、文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を上梓。 |
| 1959年1月、講談社から『作家は行動する』を上梓。 |
| 1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。 |
| 1962年、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。 |
| 滞在中に、『小林秀雄』が新潮社文学賞受賞の知らせを受けた。 |
| 1963年、プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える。 |
| 帰国後、愛国者にして天皇崇拝者の様相を帯びる。 |
| 1971年から東京工業大学助教授、のち教授となる。 |
| 『勝海舟全集』の編纂に携わるが、これは海舟を、江藤が理想とする「治者」の典型と見てのことである。 |
| 1974年、「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる。 |
| 1975年、博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、文学博士を取得。 |
| この論文は、江藤が漱石と嫂登世との恋愛関係に固執するあまり恣意的に『薤露行』を罪と死と破局の物語と読む誤りを犯していると大岡昇平からは、批判を受け論争になった宮田毬栄『追憶の作家たち』pp.197-198。 |
| 1977年、『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した宮田毬栄『追憶の作家たち』pp.86-88。 |
| 1979年頃から、米軍占領下の日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間を縛っているといったことを問題とし始める。 |
| 1980年の田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』は、「ブランド小説」として文壇内では激しく批判されたが、江藤は高く評価した。 |
| 1982年には、『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)。 |
| このとき編集後記で同誌編集長宮田毬栄が、この対談について私見を述べたところ、江藤はそれに激怒して社長嶋中鵬二宛に抗議の手紙を送った宮田毬栄『追憶の作家たち』p.197。 |
| 1983年、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなった。 |
| 1990年、東工大を辞職して、母校の慶應義塾大学法学部客員教授を経て、。 |
| 1992年、慶應義塾大学環境情報学部教授。 |
| 1997年、定年まで1年を残して慶應を去り、大正大学教授。 |
| 晩年、理想とする治者とは正反対の人生を送った永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた。 |
| 1999年7月21日、鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺、。 |
| 門人には福田和也、兵頭二十八、大久保喬樹などが、交流・影響を受けた外交評論家に田久保忠衛・森本敏らがいる。 |