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プロフィール
- 池波正太郎とは
- 生い立ち
- 終戦まで
- 劇作家として
- 小説家へ
- 鬼平犯科帳
- 剣客商売・仕掛人
- 三大シリーズとともに
- 晩年
- 池波正太郎を取り上げた番組
- 関連サイト
池波正太郎(いけなみしょうたろう、1923年(大正12年)1月25日-1990年(平成2年)5月3日)は戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・ 藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。
生い立ち
| 1923年(大正12年)1月25日、東京市浅草区聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)に生れる。 |
| 父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。 |
| この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。 |
| やがて、両親は東京に転居。 |
| 正太郎は根岸小学校に入学する。 |
| 商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した。 |
| 正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入した。 |
| 祖父今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。 |
| この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。 |
| この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。 |
| 小学校時代の正太郎は図画を好んで将来は鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。 |
| 1935年、西町小学校を卒業した。 |
| 担任の教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。 |
| 親戚の伝手によって最初株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入った。 |
| 以後、1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。 |
| チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。 |
| 兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。 |
| 特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄を習うまでした。 |
終戦まで
| 1941年、太平洋戦争が開戦したが、その翌年には兜町を退職し、国民勤労訓練所に入所。 |
| 同年のうちに芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。 |
| 所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数箇月のうちにこの技術に習熟した。 |
| このころには「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチを投稿するなどした。 |
| そのうち「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。 |
| 「兄の帰還」で賞金50円を稼ぎ、これが正太郎にとってはじめての原稿収入となった。 |
| 1943年の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。 |
| 翌年元旦には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。 |
| 休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにもついに召集令状がもたらされ、工場を退職。 |
| 4月、横須賀海兵団に入団。 |
| 間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。 |
| しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。 |
| 磯子の八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。 |
| 翌1945年3月10日には東京大空襲のため永住町の家が焼けた。 |
| その後、水兵長に進級し、鳥取・米子の美保航空基地に転属。 |
| 同地で電話交換室の室長となった。 |
| 戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。 |
| 8月15日、敗戦。 |
| 二等兵曹に進級。 |
| 残務処理を終えて8月24日に東京に戻る。 |
劇作家として
| 敗戦直後の1945年には10月の帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を見物した。 |
| 1946年、東京都職員となり下谷区役所に勤務したが、仕事は学生アルバイトとともに各所にDDTを撒布してまわることだった。 |
| すでに空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。 |
| 同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。 |
| その後も区役所勤務をつづけながら、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。 |
| 1948年には習作を手にはじめて長谷川伸を訪問。 |
| 翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。 |
| この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。 |
| 『手』は新国劇での上演が検討された。 |
| 1950年、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。 |
| 以後、新国劇の座付作者といわれるほどにこの劇団と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川のつよい勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。 |
小説家へ
| 1955年1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、みずから演出をも行った。 |
| これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職。 |
| (正太郎は昇進を断り、外回りの職に徹していたが、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた)翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作『風林火山』、『黒雲谷』、『賊将』など、新国劇で作品をつぎつぎと上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。 |
| 初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。 |
| 『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。 |
| 以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。 |
| この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。 |
| 私生活では1958年暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父が正太郎のもとを尋ね、久々の再会を果たした。 |
| 正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。 |
| 1960年、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。 |
| 長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少のころからの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。 |
| 受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号~64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号~64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号~12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。 |
| 一方で劇作家としては1963年に新国劇のために子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。 |
| 新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との齟齬が原因であった。 |
| 同年6月11日、長谷川伸が没したが、同時にこれを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。 |
鬼平犯科帳
| 四十代に入った正太郎は、『江戸怪盗記』(「週刊新潮」64年1月6日号)、『おせん』(「小説現代」同年7月号)、『堀部安兵衛』(「中国新聞」同年5月14日~66年5月24日)、『出刃打お玉』(「小説現代」65年3月号)、『同門の宴』(「オール讀物」同年9月号)、『あほうがらす』(「小説新潮」67年7月号)など従来からの歴史小説に加えて江戸の市井に題材を採った時代小説作品を多く手がけるようになったが、なかでも1967年12月の「オール讀物」に発表した『浅草御厩河岸』は読者から高い評価を受け、次号以降断続的にシリーズとして連載が開始された。 |
| のちに代表作の一つとなった『鬼平犯科帳』の第一作である。 |
| 『寛政重修諸家譜』のなかで出会った長谷川平蔵という人物につよい興味を持っていたが、旧知の八代目松本幸四郎をモデルに、世の善悪に通じ、強烈なリーダーシップと情愛を兼備えた平蔵を描出するとともに、火付盗賊改方と盗賊たちの相克を通して「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾を描き、悪漢小説として読者の広範な支持を受けた。 |
| 同時期の歴史小説に『さむらい劇場』(「週刊サンケイ」66年8月22日号~67年7月17日号)、『上泉伊勢守(剣の天地)』(「週刊朝日」67年4月28日号~6月16日号)、『蝶の戦記』(「信濃毎日新聞」ほか同年4月30日~68年3月31日)、『近藤勇自書』(「新評」同年10月号~69年3月号)などが挙げられている。 |
| 昼に起き夜中に執筆する生活習慣は相変わらずであったが、取材旅行を含めて旺盛に旅行し、映画・観劇鑑賞も盛んに行っていた。 |
| 『鬼平』連載開始の翌年1968年には担当編集者の求めによって自伝的随筆『青春忘れもの』(「小説新潮」68年1月号~12月号)を執筆。 |
| 旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させたが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者からつよい支持を受けた。 |
| 翌1969年にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年には同シリーズ中『狐火』を舞台化。 |
| 『鬼平』の連載は「オール讀物」誌上にあって依然好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』(69年)、『血闘』(70年)、『狐火』(71年)、『流星』(72年)と年一冊のペースで新作が世に送り出された。 |
| 江戸の市井を舞台とした作品でも、幡随院長兵衛を描いた『侠客』(「サンケイスポーツ」68年10月28日~69年9月5日)、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』(「週刊新潮」69年5月31日号~70年5月16日号)、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』(「東京新聞」ほか70年3月20日~46年6月17日)などの作品が発表された。 |
剣客商売・仕掛人
| 1972年には「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表した。 |
| 京都の古書店で偶然見かけた歌舞伎役者二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男大治郎、田沼意次の娘である女剣客佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決していく同シリーズも人気を博した。 |
| 翌1973年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号~12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号~12月号に、『必殺仕掛人』を『小説現代』2、7、9、10月号に同時並行で連載した。 |
| その一方で『雲霧仁左衛門』(「週刊新潮」72年8月26日号~74年4月4日号)、『剣の天地』(「東京タイムズ」ほか73年5月15日~74年3月30日)といった小説作品や、随筆『食事の情景』(「週刊朝日」72年1月7日号~73年7月27日号)なども執筆された。 |
| 仕掛人ものの『春雪仕掛針』がふたたび小説現代読者賞を受賞し、四月から『剣客商売』がテレビドラマ化、『必殺仕掛人』は映画化された。 |
| 1974年、「週刊朝日」誌上の『真田太平記』(1月4日号~80年12月15日号)が加わり、翌1975年には小説の発表が「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」の四種のみとなった。 |
| 74年にはこのほか『男振』(「太陽」7月号~77年9月号)の執筆もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演され、75年には『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞。 |
| 劇作においても、新国劇のほかに、歌舞伎にも脚本を提供するようになり、1975年には原作、脚本両方を含め、『出刃打お玉』(2月歌舞伎座)、『剣客商売』(6月帝国劇場)、『必殺仕掛人』(9月明治座)『手越の平八』(11月明治座)の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』(4月)、『江戸女草紙・出刃打お玉』(5月)、『侠客幡随院長兵衛』(10月)を上演。 |
三大シリーズとともに
| 一連の舞台のなかで1975年の『出刃打お玉』『剣客商売』などで中村又五郎とともに仕事をし、親交を深めたが、1976年より翌年にかけて『又五郎の春秋』(「中央公論」7月号~77年6月号)を連載した。 |
| 同年にはこのほか『散歩のとき何か食べたくなって』(「太陽」1月号~77年6月号)、『おとこの秘図』(「週刊新潮」1月号~77年5月12日号)および三大シリーズの諸篇を発表。 |
| 1977年にはさらに新連載『忍びの旗』(「読売新聞」夕刊11月26日~78年8月22日)がはじまった。 |
| 同年、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」を中心とした作家活動によって、第11回吉川英治文学賞受賞。 |
| 『市松小僧の女』(2月)、『真田太平記』(11月)が舞台化され、NHK「この人と語ろう」に出演し、映画『トップ・ハット』の曲『ピコリーノ』の演奏をリクエストした。 |
| 1978年、「鬼平」「剣客」のほか、『旅路』(「サンケイ新聞」5月13日~79年5月7日)の連載を開始する一方、『あいびきの女』(2月歌舞伎座)、『狐火』(11月明治座)で脚本と演出を担当。 |
| 翌1979年には三大シリーズの執筆に専念し、以前からの連載のほかは、『日曜日の万年筆』(「毎日新聞」2月4日~80年1月27日)、『よい匂いのする一夜』(「太陽」7月号~81年5月号)のエッセイ二作が発表されたのみであった。 |
| 1981年、『黒白』(「週刊新潮」4月23日号~82年11月4日号)を発表。 |
| 1983年、『鬼平』『剣客』『梅安』に加え、『雲ながれゆく』(「週刊文春」1月6日号~8月18・25日合併号)、『食卓のつぶやき』(「週刊朝日」10月14日号~84年7月20日号)を発表した。 |
晩年
| 1984年には「鬼平」「剣客」のほか『乳房』(「週刊文春」1月5日号~7月26日号)を新連載。 |
| 翌1985年には『まんぞくまんぞく』(「週刊新潮」5月30日号~11月28日号)と「秘伝の声」(「サンケイ新聞」8月19日~86年4月30日)を発表。 |
| さらに『秘密』(「週刊文春」2月6日号~9月11日号)を執筆し、3月の新国劇公演で自作の『黒雲峠』と長谷川伸の原作をもとに脚色した『夜もすがら検校』の演出として参加。 |
| 1988年、この年はまとまった仕事(以前からの連載を除いて)として『江戸切絵図散歩』(「小説新潮」1月号~12月号)のみにとどめ、5月にフランス、9月にドイツ、フランス、イタリアへ旅行した。 |
| 正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』(「週刊新潮」2月号~7月号)、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』(「小説現代」12月号~)、『鬼平犯科帳 誘拐』(「オール讀物」12月号~)の連載を開始した。 |
| 明けて1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。 |
池波正太郎を取り上げた番組
| グルメに関してのエッセーはNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」のアンカーコーナー「味なサウンド」(朗読・司会:立子山博恒アナウンサー)として1997年ごろに放送された他、ニッポン放送とABCラジオで2006年10月7日より2007年3月と、2007年10月から放送(2007年10月からはLFのみ)の「味な歳時記池波正太郎その世界」(朗読・パーソナリティー:栗村智アナウンサー)で取り上げられた。 |
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太平洋戦争が開戦したが、その翌年には兜町を... |
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