| それが好評となり知的でスマートな若手俳優のホープとして目された。 |
| 1944年に南方戦線に移動される。 |
| 食料、弾薬ともに豊富なハルマヘラ島に配属された彼らは1944年9月アメリカ軍のすさまじい艦砲射撃、空爆を受けてジャングルに逃げ込んだ。 |
| 1946年6月まで抑留され、南方から苦労して日本に帰る。 |
| 腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ俳優に戻る。 |
| 映画界に復帰した池部は日本共産党とそのシンパによる東宝争議に1948年秋まで煩わされた。 |
| 175cmの長身と美貌を生かして、次々と主演作をヒットさせる。 |
| 1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚。 |
| その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。 |
| 特に1949年の石坂洋次郎原作の『青い山脈』では、当時30代だったにもかかわらず旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。 |
| その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。 |
| 特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。 |
| 『坊っちゃん』(1953年、岡田茉莉子共演、丸山誠治監督)、『雪国』(1957年、岸惠子共演、豊田四郎監督)、『暗夜行路』(1959年、山本富士子共演、豊田四郎監督)などの多くの文芸作品で翳のある青年を好演し、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。 |
| 1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』(篠田正浩監督)でのヤクザ役が評判となる。 |
| この頃、18歳離れた女性と再婚した。 |
| 1965年、映画俳優(石原裕次郎、里見浩太郎、山城新伍ら)が暴力団のために拳銃を密輸していたことが明るみに出た。 |
| 警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。 |
| 同年2月22日、日本映画俳優協会理事長であった池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。 |
| 同年9月、東宝を離れ池部プロダクションを設立。 |
| 自ら映画を企画しストーリーを書くようになるが、1967年に1億円の負債を抱え倒産。 |
| 一方同年、東映より高倉健主演の『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されたが、妻が強く反対し、当初は断っている。 |
| しかしプロデューサー俊藤浩滋による再三の申し入れもあり、「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した。 |
| 公開された『昭和残侠伝』はヒットし、池部もシリーズを支えていく。 |
| なかでも『昭和残侠伝死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。 |
| 1983年より2009年まで、日本映画俳優協会理事長を務める。 |
| 1991年、毎日新聞連載の『そよ風ときにはつむじ風』で「日本文芸大賞」を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、以後は文筆業や講演が活動中心となる。 |
| 2007年、初の池部良研究本『映画俳優池部良』が出版される。 |
| 同年2月、東京池袋の新文芸坐のトークショーにてその本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した。 |
| ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある。 |
| 年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久弥や藤田進の息子役を演じたこともある。 |
| 文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っている。 |
| しかし「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月の『徹子の部屋』出演時に語っている。 |
| 2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。 |
| 亡くなった際も、雑誌「百歳万歳」「銀座百点」ほか4誌にエッセイを連載中だった。 |