| 河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。 |
| 藩主の娘が初代長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。 |
| そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。 |
| はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。 |
| 戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 |
| 弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。 |
| この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。 |
| 継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。 |
| つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。 |
| 継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。 |
| その後、勘定頭、新潟町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。 |
| そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。 |
| ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。 |
| 3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。 |
| 継之助の父で郡奉行や新潟町奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。 |
| ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。 |
| 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。 |
| また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。 |
| こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。 |
| 河井の祖父までの新潟町奉行の就任期間については新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行を参照。 |
| なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。 |
| まず第1に、越後長岡藩の家格に「奉行格」という家格は存在しなかった。 |
| そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に越後長岡藩では、家老を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。 |
| 他藩では家老格という家柄がある場合もあり、長岡藩の家格に無知な為に奉行格を家格と誤認したと推察される。 |
| 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。 |
| この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。 |
| したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。 |
| 加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。 |
| 「長岡市史」によると奉行より格上の家老補佐役である中老が時に家老格になることがあるとしているが、これを家老扱いしていない。 |
| 他藩でも時に似た誤解があるが、長岡藩の奉行格を奉行、家老格中老を家老だったということは江戸幕府の大老格老中兼務側用人であった柳沢吉保を大老であったというのと同意義である。 |