| 1920年(大正9年)、押川清、橋戸信らと共に、日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)を創設。 |
| 河野らはフランチャイズの理想を追求し、まず本拠地となる芝浦球場を建築。 |
| 1922年(大正11年)よりアマチュアチームを相手に試合を行い、河野は監督に就任。 |
| 当時人気・実力とも最高峰の古巣・早大野球部に善戦したことで、一応の軌道に乗りかける。 |
| また、翌1923年(大正12年)6月23日には、京城の竜山満鉄グラウンドで天勝野球団と対戦。 |
| 天勝野球団もまた、日本運動協会に遅れること1年で結成されたプロ野球チームであり、史上初のプロチーム同士の対戦となった。 |
| 5-6で日本運動協会が敗れたが、通算では2勝1敗と勝ち越した。 |
| しかし、同年の関東大震災で内務省により芝浦球場が「震災復興基地」として差し押さえられた。 |
| しかも内務省からは返還の予定期日さえ明言がなく、借地料の支払いも一切なかった。 |
| 一方、大学のグラウンドはどこも接収されなかった。 |
| これは野球を職業とすることへの偏見が強かったためであった。 |
| このため1924年(大正13年)1月23日解散を余儀なくされる。 |
| しかし、同年阪神急行電鉄の小林一三の支援を受け、本拠を宝塚球場に移転、チーム名を宝塚運動協会と改称し再建。 |
| 1929年、世界恐慌により宝塚運動協会が解散すると、小林に宝塚音楽学校校長としてとどまるよう誘われるが、河野はこれを断り東京に戻った。 |
| 一時的に早稲田大学野球部に戻り、総務となった。 |
| しかし、時折グラウンドに出て選手に指示を与えたことから、監督の市岡忠男は現場への介入と見て不愉快に思った。 |
| さらに、福田宗一投手の入学をめぐって対立し、最終的に河野が折れ福田投手は入学したが、市岡はこれを機に辞任を決意。 |
| 読売新聞社に就職した。 |
| 1936年(昭和11年)プロ野球リーグが結成されると、河野は名古屋軍の総監督として迎えられたが、後楽園イーグルス設立のため1937年(昭和12年)退団。 |
| 理想の球団を目指しイーグルスを創設した。 |
| 太平洋戦争が始まると、河野は個人的には勝てない戦争と考えていた。 |
| しかし戦局が不利になる中、戦争協力に全力を尽くすため、1943年(昭和18年)大和軍と名を改めていた球団の解散を決意。 |
| 選手の大半はヂーゼル自動車工業に引き取られ、自らも敗戦まで籍を置いた。 |
| 一方、市岡は読売で大日本東京野球倶楽部の創立に参加し、総監督、のちに球団代表となった。 |
| 市岡は河野とたびたび衝突したが、巨人の権勢を背景にした市岡の勝利に終わるのが常であった。 |
| たとえば、1940年(昭和15年)ペナントレースでは「満州遠征」により海外での公式戦が行われた。 |
| 河野は遠征団長を務め、翌年の開催を地元の主催者にも約束していた。 |
| ところが、市岡は翌1941年(昭和16年)の「満州遠征」開催に反対し、中止にさせてしまった。 |
| 1945年(昭和20年)日本が敗戦すると、河野は旧大和軍の選手たちに呼びかけ、12月のある日、東京カッブスとして日本野球連盟会長の鈴木龍二に加盟を申請。 |
| しかし、ここでも東京巨人軍の市岡代表が「(河野は)自ら進んで大和軍を解散したのだから」と猛反発した。 |
| このため鈴木は正式な加盟審査に掛けることなく、申請を握りつぶした。 |
| 鈴木は著書『プロ野球と共に五十年(上)』で「否決されてしまった」と審査に掛けたかのように書いているが、実際には他球団のオーナーは申請の存在を知らされておらず、巨人の意向がそのまま通った形になった。 |
| 鈴木は河野に同情的であったが、巨人の意向を絶対視していたものと思われる。 |
| 河野はまもなく死去したため、正式な却下の報せを受けていたかもわからないという(記録上は、河野の死の直後である1946年(昭和21年)1月22日の緊急理事会で却下)。 |
| 1946年(昭和21年)1月21日、脳出血のため急死。 |
| 死後、野球に関する蔵書は鈴木龍二に買い取られ、野球体育博物館図書室の元となった。 |
| 現在同館に所蔵されている資料のうち、太平洋戦争以前のものに関しては、その半分が河野の蔵書だといわれている横田順彌『嗚呼!!明治の日本野球』平凡社、2006年、20頁。 |
| なお、残りの半分は、在野の野球研究家・石川啄木研究家である斎藤三郎の蔵書だという。 |
| 1960年(昭和35年)、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。 |