| アマチュア時代から剛球投手として名をはせていた津田だが、それと相反するように、自他ともに認めるメンタル面の弱さも持ち合わせていた。 |
| 高校時代には、監督から精神安定剤と偽ったメリケン粉を渡されたこともあったという。 |
| 『弱気は最大の敵』『一球入魂』といった座右の銘や、打者に真っ向から立ち向かう投球スタイルは、元々はそのような自らの精神的な弱さを克服するために心がけていたものであった。 |
| 二つの座右の銘を書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には必ずそのボールに向かって気合を入れていた。 |
| 明るくひょうきんな性格でチームメイトやファンから愛されていた。 |
| ドラフト直前のTVインタビューで「希望の球団は特にないですけど…広島ですねぇ~」、ドラフトで広島に指名されたあとの記者会見で「新人王ですか?ウ~ン…狙いますねぇ~」、―フォークボールに特徴があると聞いたが「すっぽ抜けて伸びるフォーク」、ドラフトについて「巨人(に指名されること)が不安だった。 |
| 」―どういう意味で?「しつこく来られたからね」、『麹の良さが決め手』がキャッチフレーズの味噌メーカー(ますやみそ)のCMで「ウチのチームといっしょですね!ねぇ、浩二さん!」など、数々の言葉からそのキャラクターが窺える。 |
| リリーフピッチャーとしての責任感が非常に強い選手だった。 |
| 清川栄治のプロ初勝利が掛かった試合に登板し、メッタ打ちにされて清川の勝利を消してしまった時は、試合後に合宿所の清川の部屋へ、30分おきに何度も謝りに行ったという。 |
| 1986年9月24日の巨人25回戦で津田と対戦した原辰徳は、ストレートをファウルした際に左手の有鉤骨を骨折し、残りシーズンを全て欠場、翌シーズン以降も左手首痛の後遺症に苦しんだ。 |
| しかし後年、原は「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。 |
| また、1991年4月14日に津田からタイムリーヒットを打って生涯最後の対戦打者となったのは、奇しくも原である。 |
| 原に投じた最後のボールは、144km/hのストレートであった。 |
| 血行障害から復帰後は、直球主体のピッチングであった。 |
| 特に1986年は投げた球種の90%以上がストレートであり、変化球はほとんど投げていない。 |
| ピンチになればなるほど球速が上がっていく傾向があった。 |
| 1986年の対阪神タイガース戦、9回裏1死満塁同点(4対4)の場面では、2番打者の弘田澄男に143km/h、148km/h、151km/hのストレートを投げ、3球三振にしとめる。 |
| その後の三番打者、当時絶頂期にあったランディ・バースに対しても、全て150km/h超のストレートで挑み、3球三振に斬り捨て、ピンチを脱した。 |
| この試合を実況していた毎日放送アナウンサーの城野昭は「津田、スピード違反」と叫び、バースは試合後に「ツダはクレイジーだ」というコメントを残している。 |
| 1986年の日本シリーズで広島は、西武ライオンズに初戦引き分けの後3連勝して日本一に王手をかけながら、5戦目の延長12回に工藤公康にサヨナラ安打を浴び、その後勢いに乗った西武に4連敗、日本一を逃すという屈辱を喫している。 |
| この延長12回のサヨナラ安打を浴びたのが、リリーフ登板した津田だった。 |
| 津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。 |
| 津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えた。 |
| 広島ナインはこれに奮起し、この年チームは夏場まで独走していた中日ドラゴンズを逆転でかわし、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。 |
| この時、津田とダブルストッパーを組むことになっていた大野豊を始めとする投手陣は、リーグの投手部門の主要タイトルを独占するという大活躍を見せている(最優秀救援投手:大野、最多勝利・最優秀防御率・沢村賞:佐々岡真司、最高勝率:北別府学、最多奪三振:川口和久)。 |
| チームメイトであった森脇浩司とは無二の親友だった。 |
| 1987年のシーズン中に森脇が南海ホークスへトレードされた時は、夫人に対して「お前か浩司のどっちかをとれって言われたら、オレは浩司をとる」と言い、夫人を呆れさせたという。 |
| 晩年、福岡市内の病院に入院して闘病生活を送っていた津田及び周辺の諸々の世話を積極的に行っていたのも森脇だった。 |
| 津田が一時回復を見せた時、森脇は「オレの年俸を半額にしてでも、お前を現役復帰させられるように球団(福岡ダイエーホークス)にかけあってやる」と言ったとされる。 |
| 1994年に森脇が結婚し披露宴を挙げた際には、亡き津田のために席を用意し、津田のグラスにシャンパンを注いでキャンドルサービスを行い、同席した金石昭人、清川栄治ら友人の涙を誘った。 |
| 津田がマウンドに再び立つ事はなかったが、津田の一人息子の大毅は、森脇らの計らいにより福岡ドームのマウンドに始球式で立つことになった。 |
| 逝去した当日、東京ドームでオールスターゲーム第1戦が行われていた。 |
| そのため、津田の死は試合途中に速報で伝えられ、地元広島のテレビ各局で津田と親交のあったアナウンサーは、涙ながらに訃報を伝えていた。 |
| 山本浩二監督を始めとする広島の選手は、全員喪服ではなくユニフォーム姿で津田の葬儀に参列した。 |
| こうした野球人生は、多くのファンに強い印象を残した。 |
| 2000年には、晃代夫人の著書「最後のストライク」が、岸谷五朗主演でドラマ化されている。 |
| 鹿児島市の居酒屋「のん呑ん亭」の店の壁にある、津田恒実をテーマとした詩がFMラジオ番組で紹介されて話題となった。 |
| ある詩人が即興で書いたものだが、ラジオでの紹介をきっかけに以降存在が広まり、後には津田の家族や関係者が来店するようになった。 |
| 一人息子の津田大毅は九州学院高校から九州国際大学へ進学後、2008年から古葉竹識が監督に就任した東京国際大学へ編入。 |
| 親子2代に渡って古葉に師事することとなった。 |
| しかし度重なる怪我に悩まされ野球選手の道には進めず、大学卒業後はサラリーマンの道を歩む(2011年2月8日日本テレビ「DON!」)。 |
| なお、大毅については2010年4月のおはよう日本でも取り上げられている。 |