47203
47543
556558
%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%BA%90%E4%B8%83
%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%BA%90%E4%B8%83
%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%BA%90%E4%B8%83
%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%BA%90%E4%B8%83
%E6%B5%85%E5%8E%9F%E6%BA%90%E4%B8%83
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 浅原源七とは
- 来歴・人物
- 日産争議
- 社外での活動
- 現在の評価
- 関連サイト
浅原源七(あさはらげんしち、1891年9月1日-1970年8月23日)は日本の実業家、技術者である。日産自動車社長や自動車技術会会長を務め、日本の自動車産業発展の礎を築いた人物の一人である。なお、正確な氏名は旧字体の「 淺原源七」であるが、ここでは「浅原」で統一する。
来歴・人物
| 東京帝国大学理学部化学科を卒業後、理化学研究所に勤務。 |
| 主任研究員として研究を進める。 |
| その後、戸畑鋳物に入社。 |
| 1933年に同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用トラックの生産を中心とした同社の中心的人物として、日産コンツェルン創始者の鮎川義介を助けた。 |
| 1942年から1944年までは同社の第3代社長となった。 |
| 戦後はGHQの経済科学局顧問となり、自動車産業の復興や技術開発に尽力した。 |
| 1951年には日産自動車の社長に復帰し(第8代)、1953年の日産争議を経営陣勝利に終わらせ、その後の急成長を導いた。 |
| 6年間の在任後、1957年にその地位を川又克二専務に譲った。 |
| 1970年8月23日死去。 |
日産争議
| 1953年に日産自動車で起こった大規模な労働争議である。 |
| 当時の自動車企業では総評系の全日本自動車産業労働組合(全自動車)が活発な活動を続けていた。 |
| 同年6月、賃金・退職金・一時金の増額や従業員の待遇改善を求めた日産分会(益田哲夫委員長)がストライキを強行したが、浅原社長などの経営陣はロックアウトや暴力行為を理由とした分会員の懲戒解雇で対抗し、更に同年8月に第二組合として結成された日産自動車労働組合と労使協調関係を結んで、日産分会員の切り崩しを進めた。 |
| そして、最終的には経営側の勝利により操業再開にこぎ着けた。 |
| この解決策は日産の業績回復に大きく貢献し、同様に労働争議に苦しんでいたトヨタ自動車やいすゞ自動車にも影響を与え、全自動車は1954年に解散した。 |
| 組合員を切り崩され、外部からの支援を失い、闘争後の資金問題に苦しんだ日産分会は1956年に解散し、全社員が日産自動車労組に一元化される事になった。 |
社外での活動
| 浅原は自動車技術者としての名声も高く、戦時中は軍用トラックの規格制定などにも関わった。 |
| 戦後、1947年には社団法人として自動車技術会(JSAE)が設立され、浅原がその初代会長として就任した。 |
| 1949年に豊田喜一郎に地位を譲ったが、1951年には優秀な若手自動車技術者を表彰する「学術賞」と長年の功労者を表彰する「技術賞」を同会に設置させた。 |
現在の評価
| 浅原は戦中・戦後の日産自動車の経営に深く関わり、激動の時代を乗り切った有能な経営者として記憶されている。 |
| 特に日産争議を経営側の勝利で乗り切った事は、その後の日産の発展に大きく寄与したともいわれている。 |
| その一方、御用組合とも揶揄される第二組合の設立により第一組合が完全に破壊された事は、その後の労働運動の発展を阻害し、経営者(資本家)による不当労働行為の横行につながったという批判もなされている。 |
| また、その後の日産社内においては日産自動車労組の影響力が増大し、塩路一郎委員長と川又克二社長との蜜月関係は社内の労使関係や人間関係をいびつなものにした。 |
| なお、自動車技術会はその後も発展を続け、個人会員約3万5000名、賛助会員(法人)約500社にまで発展した。 |
| 初代会長である浅原を記念して、彼の死後の1980年には従来の「学術賞」と「技術賞」をそれぞれ「浅原賞学術奨励賞」と「浅原賞技術功労賞」に改称し、彼の功績を今でも称えている。 |
|
1933年
|
同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用ト... |
|
1947年
|
社団法人として自動車技術会(JSAE)が設立され... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
川又克二
川又克二(かわまたかつじ、明治38年(1905年)3月1日-昭和61年(1986年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られる。 |
|
|
益田哲夫
益田哲夫(ますだてつお、1913年9月13日-1964年7月10日)は日本の労働組合運動活動家。第二次大戦後、自動車産業の労働組合として結成された全日本自動車産業... |
|
|
塩路一郎
塩路一郎(しおじいちろう、1927年1月1日–)は日本の労働運動家。元自動車総連会長。かつて日産自動車社内において、「塩路天皇」の異名を取るほどの権勢をふ... |
|
|
豊田喜一郎
日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。トヨタ自動車工業、現・トヨタ自動車社長(第2代)、社団法人自動車技術会 会長(第2代)などを歴任した。 |
|
|
鮎川義介
当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会... |
|
|
田部文一郎
日本の実業家。元三菱商事社長・会長、元日本商工会議所副会頭。 |
|
|
石原俊
石原俊(いしはらたかし、1912年3月3日-2003年12月31日)は日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自... |
|
|
カルロス・ゴーン
1954年3月9日出生)は、ブラジル人(レバノン系ブラジル人)の実業家。ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)で、日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)も務める。... |
|
|
高杉良
日本の小説家。ビジネスマン小説の巨匠として知られる。 |
|
|
マーク・フィリー
マーク・フィリー(MarcusMichaelPatrickFeehily,1980年5月28日-)はアイルランド人歌手。UKの人気グループ、ウエストライフの一員。弟が2人いる。ウエストラ... |
|
|
牛尾治朗
日本の実業家。ウシオ電機株式会社代表取締役会長、経済同友会代表幹事のほか、社会経済生産性本部会長、KDDI取締役、経済財政諮問会議議員などを歴任。日本... |
|
|
日高輝
日高輝(ひだかてる、1905年(明治38年)2月22日-1987年9月25日)は昭和期の日本の経営者。東京帝国大学法学部卒。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一... |
|
|
豊田達郎
日本の実業家。学位は経営学修士(ニューヨーク大学)。財団法人トヨタ財団会長(第2代)、学校法人トヨタ学園理事長(第2代)。ニュー・ユナイテッド・モー... |
|
|
飛鳥田一雄
飛鳥田一雄(あすかたいちを、1915年4月2日-1990年10月11日)は横浜市出身の日本の政治家。衆議院議員(当選6回)・横浜市長・日本社会党委員長を歴任した。 |
|
|
石田退三
元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタ中... |
|
|
中山素平
日本の銀行家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長、経済同友会代表幹事を歴任。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下から... |
|
|
辻義文
辻義文【つじ・よしふみ】日産自動車 更新日: 2007-04-18 ■辻義文【つじ・よしふみ】【肩書き】日産自動車【生年月日】1928年2月6日【没年月日】2007年... |
|
|
豊田章一郎
日本の実業家、技術者。勲等は桐花大綬章。学位は工学博士(東北大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、株式会社デンソー取締役、社会福祉法人恩賜... |
|
|
浅原源七さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|