| 母方の祖父ウィラード・オバリングはアメリカ合衆国ミネソタ州ウィノナ生まれ。 |
| ドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリー』NHK、「浅野忠信」2011年8月3日放送回。 |
| の北欧系アメリカ人。 |
| 『ファミリーヒストリー』(2011年8月3日)より。 |
| 浅野の母は、ナバホ系のアメリカ・インディアン※ネイティブ・アメリカンは当事者非承認の白人の用語。 |
| -->の血統と思い込んでいたようであるが、番組製作時の調査でそれが間違いと判明。 |
| ウィラードの弟ゴードンは「父ジェイコブはオランダ人、母エラベルはノルウェー人で、共に北欧の家系である」と証言した。 |
| ただ、ウィラードの出身地(ゴードンの現住地)ウィノナはもともとアメリカ・インディアンであるスー族の一支族ダコタが居住する地域であった。 |
| また、オバリング家は、未開拓地を無償で払い下げる法律を作ってヨーロッパからの移民を大量に受け入れていた19世紀後半のアメリカに渡ってきた西部開拓移民であったことも、証言と取材班の調査によって明らかとなった。 |
| 一家は小麦や大豆を作って生計を立てていたという。 |
| で、元・農民。 |
| 第二次世界大戦時(1946年、18歳時)以降はアメリカ陸軍の料理兵であった。 |
| 戦後、日本に駐留し1949年(昭和24年)3月、横浜市の進駐軍司令部にて着任。 |
| 、配属された横浜市にて浅野の祖母である浅野イチ子と出会う。 |
| 元・芸者であったイチ子は、ウィラードより15歳年上の38歳で、戦後、満州国大連市から帰国したが、故郷・広島が原爆で壊滅したため、仕事を求めて上京していたという(その父は芸者の置屋を営んでいた)|※曽祖父の話は家族の節に記述あり。 |
| やがてふたりは結婚し、1950年(昭和25年)9月23日に長女・順子(忠信の母)が生まれた。 |
| その後、ウィラードはアメリカ軍の引き揚げに伴って帰国する際、イチ子と順子の渡米を強く望んだが、イチ子はこれを拒んで日本にとどまった迷った末、渡米直前になって拒否したとのことであるが、イチ子が渡米しなかった理由は明らかでない。 |
| 会話もままならない異文化社会で子育てすることへの不安のほか、まだ若い夫との年齢差から来る不安を当時44歳になっていたイチ子は感じていたのではないかと、『ファミリーヒストリー』は推測した。 |
| ここで渡米していれば、忠信は生まれない。 |
| 順子は18歳で結婚し、1971年(昭和46年)11月14日に長男の久順(現・KUJUN。 |
| 俳優、演奏者)が、1973年(昭和48年)11月27日に二男の忠信(以下、浅野とも表記※注意:閲覧者本位であること。 |
| 浅野では主語不詳の場合がある。 |
| -->が誕生した |
| 浅野兄弟は、公園でビキニ姿で日光浴するような奔放さを持つ母と、整理整頓が得意で几帳面な父のもと、横浜市で育った。 |
| 忠信は「ヒッピーの子供で生まれた」としている。 |
| 20代前半で子を得た両親はまだ若く奔放であった。 |
| 夜に浅野兄弟を家に残して両親がディスコに行ってしまうことも珍しくなく、兄弟は近所の家に「お母さんがいない」と泣きついたこともあったという。 |
| 一方で両親は「親が白と言ったら白なんだ」という厳しさも持ち合わせていた。 |
| 大黒柱である父親が最初に食事をし、子供は残ったものを食べるというように、甘やかされることなく浅野は育てられた。 |
| 忠信のことを、母は、いつもニコニコと笑いながら歩いている子供だったと言う。 |
| また、忠信自身は「子供の頃から目立ちたがり屋で、いつもテレビに出たいと思っていた」と語っている。 |
| そう思うきっかけになったのは、母が忠信に見せたウッドストック・フェスティバルの映像であった。 |
| ステージ上のミュージシャンが観客を熱狂させているのを見て、人前で大勢の人を喜ばせるようなことをしたいと考えるようになったという。 |
| また、クォーターのために幼い頃は髪の色が金髪に近く、何もしていなくても目立っていて声をかけられることも多かったことから、自分から無理に目立つことをしなくてもいいと思うようになり、それが今日の自身の穏やかな印象に影響していると浅野は考えている。 |
| 小学生の頃から実家の隣の空手道場に兄と通った |
| また、ブレイクダンスやスケートボードも始めた。 |
| 中学からは音楽を始め、パンクロックバンドを組み元町や本牧のライブハウスを渡り歩いた。 |
| この頃ファンであったのはおニャン子クラブの吉沢秋絵で、フジテレビ前で出待ちをしたこともあったという『とんねるずのみなさんのおかげでした』2009年6月25日放送回より。 |