24705
24938
282314
%E6%B5%9C%E5%B4%8E%E7%9C%9F%E4%BA%8C
%E6%B5%9C%E5%B4%8E%E7%9C%9F%E4%BA%8C
%E6%B5%9C%E5%B4%8E%E7%9C%9F%E4%BA%8C
%E6%B5%9C%E5%B4%8E%E7%9C%9F%E4%BA%8C
%E6%B5%9C%E5%B4%8E%E7%9C%9F%E4%BA%8C
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 浜崎真二の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 浜崎真二とは
- 中等学校野球
- 早慶戦復活
- 都市対抗野球
- 45歳でプレーイング・マネージャー
- 高橋・国鉄監督
- 参考文献
- 関連サイト
浜崎真二(はまざきしんじ、1901年12月10日-1981年5月6日)は、広島県呉市出身の野球選手(投手)・野球指導者・野球解説者。現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場を記録している。実弟・浜崎忠治も 鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇した時の選手(投手・内野手)。その後審判として平和台事件の主審を務め、歴史的判断を下した事でも知られる。
中等学校野球
| 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。 |
| 藤村富美男や鶴岡一人、広岡達朗など呉出身の著名選手は皆この近辺の出。 |
| 呉海軍工廠はバレーボール日本最初の実業団チームを所有し、日本バレー黎明期の強豪として知られたが、野球も強くその影響で浜崎も野球を始めた。 |
| 小学校卒業後、高等科2年を経て旧制広島商業に入学した。 |
| 当時のエースは石本秀一で、広商の予科2年時の1917年、外野手の補欠として第3回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会(鳴尾球場))に出場した。 |
| 翌1918年は米騒動で全国大会は中止。 |
| 浜崎の実家も米屋で被害を受けた。 |
| 同年夏、友達が学校をさぼって海水浴に行き無期停学となり、これに巻き込まれ自身も広商の本科1年で退学した。 |
| この後呉海軍工廠に半年間就職して野球を続け、前述の友達に誘われ1919年、神戸商業に入学中村哲也『学生野球憲章とはなにか』青弓社、2010年、P7-25。 |
| 1922年、第8回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に出場。 |
| サウスポーの快速球エース兼3番として勝ち進むが、決勝で当時最強を誇った和歌山中学に終盤8・9回、味方のエラー連発で8点取られ大逆転負け、準優勝。 |
| 7回まで4点のリードに、地元夕刊紙は「神戸商業優勝」を伝える新聞を配ってしまい、翌朝の朝刊を見るまで多くの人は大逆転されたと知らなかったという。 |
| 結局、浜崎はまったく異なる学校で、2度全国大会に出場したことになった。 |
| こうしたケースはもう一人、伊沢修(西村修)がいる。 |
早慶戦復活
| 1922年、関西で慶應系選手を主体にしたクラブ・チーム「ダイヤモンド倶楽部」に所属。 |
| 関西へ初遠征してきた芝浦協会と対戦し、浜崎は永井武雄と二人で同チームを完封した『阪神タイガース昭和のあゆみ(プロ野球前史)』株式会社阪神タイガース、1991年、p72。 |
| 1923年、慶應義塾大学に進学。 |
| 当時慶早戦は中止されていた時代、野球部は全部で15人だったという。 |
| 新人ながら主戦投手に抜擢され、更に打者としても活躍した。 |
| この年の関東大震災は満州遠征で免れた。 |
| この年と1927年、極東選手権に全慶應の選手として出場。 |
| 1925年、国民的関心時だった「早慶戦復活」最初の試合で腰を痛めて二回KOされ『六大学野球物語』松尾俊治他、恒文社、1978年、p36-40、神宮球場が完成した1926年も勝てず、慶應は二年間早稲田大学に勝てなかったが、"陸の王者"の歌詞で知られる慶應義塾大学応援歌「若き血」が出来た1927年、早稲田を2試合連続完封して雪辱を果たした。 |
| 長い間の「早慶戦」の断絶から、その後まる二年間、屈辱的な敗戦で負け続け、恨みが積もっていただけに、ナインの喜びは勿論のこと応援団は天地がひっくりかえるような騒ぎであった。 |
| "陸の王者"の絶叫は神宮の森にいつまでもこだました。 |
| このシーズン浜崎は絶好調で5試合に登板、与えた安打はわずか9本、得点は東大戦に捕逸で1点を失っただけで、あとは全部シャットアウトする快投ぶりであった。 |
| 慶應の米国遠征でも、“スクール・ボーイ(小学生)”と呼ばれアメリカでも有名となった。 |
| リーグ戦は投手として29試合登板、14勝7敗、打者として78試合出場、221打数56安打、打率.253、1本塁打。 |
| 2007年の野球界はプロ野球の裏金問題に端を発して高校野球の野球留学と特待生問題で大きく揺れたが |
都市対抗野球
| 1929年慶應卒業後、「お前は内地向きじゃない」と言われ南満州鉄道に入社。 |
| 満州倶楽部で投打の中軸として毎年都市対抗野球に出場した。 |
| 谷口五郎(岩瀬五郎)、渡辺大陸と並び、初期都市対抗を沸かせた"大投手ビッグ3"とも呼ばれた。 |
| 同年第3回大会では児玉好雄らと共に満州倶楽部2度目の優勝に貢献。 |
| 1931年第5回大会、初戦で八幡製鐵所の20歳の投手・大岡虎雄と投げあい2対1で敗れる。 |
| 1932年の第6回大会では伏兵・全神戸に敗れたが準優勝投手。 |
| 1934年、弟・浜崎忠治が満州倶楽部に加入。 |
| 1931年、1934年と二度来日したジョー・ディマジオ、ベーブ・ルースら米大リーグ選抜チームと対戦する全日本軍(日本選抜チーム)にいずれも選ばれ好投した。 |
| のちに巨人軍の母体となったこのチームに残らないか、と誘われたが18戦全敗した事で、水原茂らと満州に帰った。 |
| 帰国後も大連実業×満州倶楽部の「実満戦」などに選手、球審として活躍。 |
| 太平洋戦争勃発直前の1941年には明治神宮野球大会に監督兼投手として出場。 |
| 2試合連続完封して全国制覇し「41歳のエース」と謳われた。 |
| 身長は154cm(浜崎自身は自著で五尺二寸と述べているが151cm説もある)で、当時としてもかなり小柄な選手であった。 |
45歳でプレーイング・マネージャー
| 大会から帰ると太平洋戦争が勃発。 |
| 満鉄と満州国が出資して設立された満州映画に入社。 |
| 甘粕正彦理事長の元で働くが、俳優としてでは無く厚生部参与として社員のスポーツ振興の為雇われた。 |
| 浜崎は甘粕を恐れず自らの意見を述べ、困難な時局を乗り越えるのはスポーツで心を一つにすることこそ最適と、放置された満映の土地を整地して、野球場のほかバレーボール、バスケット用施設の建設を甘粕に進言した山室寛之『野球と戦争』中央公論新社、2010年、P176-177。 |
| 1944年、運動施設は完成するが、甘粕は1945年、終戦直後青酸カリで自決した。 |
| 終戦後はロシア支配下の大連で満人との地位が逆転、トンカツ屋をするなど苦心したが小泉吾郎、安藤忍と共に「実満戦」復活を実現させた。 |
| 1947年、大連からようやく日本に引き揚げ、まず六代目尾上菊五郎を頼ると小野三千麿らから、当時別府星野組、大日本土木など新興勢力として台頭していた土建屋の一つ熊谷組の監督に要請され一旦就任関三穂『プロ野球史再発掘4』ベースボール・マガジン社、1987年、P28、29、86-100。 |
| しかし後から前年中日の監督を務めしくじった早稲田出身の竹内愛一を総監督で迎えると言われ辞退した。 |
| たまたま後楽園球場に野球を見に行ったら慶應の後輩で当時阪急の代表をしていた村上実に誘われ、45歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団(これは今でも日本プロ野球選手史上入団最年長記録である)。 |
| 当時の監督は西村正夫で、この年阪急は4月まで阪急ベアーズとして戦い、5月から阪急ブレーブスとチーム名を変更したが、浜崎は直後の6月の入団だった。 |
| この年秋、オープン戦を巨人と帯同し、三原脩に口説かれ青田昇を巨人に返す。 |
| この1947年には公式戦で投手として4試合登板で勝利1。 |
| 翌年1948年に監督となり、既に46歳であったが、17試合登板3勝3敗。 |
| この年加入させた塚本博睦らを積極的に走らせた。 |
| 翌1949年には低い下馬評を覆し武智修、内藤幸三、中谷準志、玉腰忠義ら、効果的な補強と天保義夫、今西錬太郎両投手をうまく使いこなし、シーズンを独走した巨人に唯一勝ち越すなど2位と躍進させた。 |
| この頃八百長に関与する選手が多く、これの撲滅に自身も神戸の親分から3ヶ月追いかけ回されるなどチーム作りには苦心。 |
| 戦後初の黒人選手を入団させたり、丸尾スカウトにまだ高校生の梶本隆夫と契約させたりしたが、小林一三社長が余り金にならない野球の埋め合わせに阪急西宮球場で競輪を開催するなどの消極策をとり(競輪が人気を集めて開催日が増え、芝がひどく荒れたと言われている)、1950年の2リーグ分裂時には他球団による引き抜き、特に病気を治した永利勇吉ら捕手全員が他球団に移籍し、二枚看板もその一人・今西錬太郎の他、主力がほとんど引き抜かれた。 |
| 田村駒治郎が松竹ロビンスに浜崎を引き抜こうと東京に行って留守の間に赤嶺昌志関三穂『プロ野球史再発掘6』P173-179関三穂『プロ野球史再発掘7』P17-24や宇高勲長尾伸二郎「プロ野球やぶにらみ戦後史」(『別冊一億人の昭和史・日本プロ野球史』)では、当時病床にあった宇高が「浜崎監督が激怒し『宇高絞首刑!!』と叫んだ」と話された、とある。 |
| 「赤嶺昌志を絞首刑にしたい」の発言は新聞に掲載され、赤嶺から「子供が学校へ行けん」と言われたという。 |
| チームで唯一の捕手は新人の山下健だったが、開幕戦で急病欠場となった際には捕手経験がない内野手の明石武(後の明石晃一)が急遽捕手をすることになる事態となった。 |
| 一からチームを作り直さなければならない状態であったが天保、野口二郎らの頑張りで4位を保った。 |
| 「若い投手には任せてられない」と、1950年5月7日に登板し、48歳4ヶ月の日本プロ野球史上最年長勝利を記録。 |
| 11月5日には消化試合の余興として、対戦相手の毎日監督湯浅禎夫(48歳1ヶ月)と先発投手として投げ合い、敗戦投手となった。 |
| 打撃にも優れていたため、三塁打、二塁打、安打、打点、盗塁などの最年長記録ホルダーでもある |
| 有望選手争奪は叶わず、「中西太も荒巻淳も広岡達朗も小森光生も獲れた。 |
| 後年、自著で「小林社長がもう少し野球に金をかけてくれたら、阪急の低迷は長くはならなかったのでは」とつづった。 |
| 1952年に獲ったジミー・ニューベリーとジョン・ブリットンは、浜崎が「白人は戦勝国民で日本人をバカにしているから黒人を獲ってくれ」と球団に要請したものという。 |
| 1953年には乏しい戦力ながら、球団に直訴して獲得した伊勢川真澄捕手やブリットン、ゲインズ、レインズの黒人三選手らの活躍で優勝争いに加わった。 |
高橋・国鉄監督
| 1954年、パ・リーグの永田雅一総裁の画策で、前年までの7球団から追加された高橋ユニオンズの創設に伴い監督に就任。 |
| 永田から「各チームから有望な若手選手を供出させる」という約束を信じ切って『野球小僧』2010年8月号、白夜書房、P204-211既存の7球団から若い選手を預かり育てて、元の球団に選手を返すという計画を立てたが、実際に移籍したのはベテラン選手や監督に食ってかかるような問題がある選手が殆どであった。 |
| 特に広商の後輩筋にあたる南海の鶴岡一人監督からは、笠原和夫、江藤正、服部武夫、黒田一博といった若手選手とは言えない酒好きで有名な選手を押し付けられた。 |
| この年は最下位候補といわれながら8チーム中6位と健闘したが、トンボ鉛筆がスポンサーに加わり、トンボユニオンズとチーム名を改称した1955年には開幕11連敗を始め負けが込み、ノイローゼとなりシーズン終盤の9月20日、124試合で退任した。 |
| 後を継いだ笠原和夫もチームを立て直すことは出来ず、当時あった罰則規定の勝率3割5分に及ばず(42勝98敗、勝率はジャスト3割)罰金500万円を課せられた。 |
| 但しスタルヒンの300勝達成には骨を折った『野球小僧』2010年12月号、P204-211 |
| その後、毎日オリオンズの二軍コーチをしながら、スポーツニッポンや報知新聞、朝日放送の評論家・解説者を務めた。 |
| 1960年には、慶應の後輩で読売ジャイアンツ(以下、巨人)監督の水原茂に投手陣の立て直しを頼まれ投手コーチを務めた。 |
| この頃、オーナー企業の国鉄(日本国有鉄道)と産経新聞社の力関係が微妙で、また立教大学出身の砂押邦信前監督一派が非協力的だったこの年、天皇と言われた金田正一にも厳しく接するなどした。 |
| 1964年同局に入社した深澤弘のプロ野球実況デビュー戦の解説の相手だったという『野球小僧』2010年12月号、P162。 |
| プロ野球黎明期に非常に指導者として評価の高かった人物で、阪急フロントとしっくりいっていなかった1950年には、長老・小西得郎がネット裏から見た浜崎の野球に惚れ込み、松竹ロビンスで球界復帰する際、当初監督を浜崎、助監督を水原茂の構想だったが、諸事情で失敗すると、今度は自身監督就任なら浜崎を助監督に就ける事を強く要請した。 |
| しかし当時は引き抜きが大きな問題となっていた時期で結局流れたという逸話も残る小西得郎『したいざんまい』実業之日本社、1957年、P141、142。 |
| 阪急時代の挿話として吉田義男(後の阪神タイガース監督)の獲得を見送った話がある。 |
| 私より2寸も高いんです」と言ったとたんに「あほう、そんなチビが採れるかい」と一蹴した、というもので、浜崎自身の身長がスカウトと同じだったことからユーモラスな挿話として有名になったこれについて吉田は、事実は異なり実際には助監督の西村正夫の誘いがあったが自ら断ったと記している(『牛若丸の履歴書』日本経済新聞社、2009年、P38-39)。 |
| ヘビースモーカーで試合中にも関わらずベンチでタバコを吹かしていたとか、大差をつけられると采配を人任せにしてベンチからいなくなったとか、負けが込み過ぎたユニオンズ時代には試合の始まる前にしか来なかったの証言もあった。 |
| 監督時代は「雷おやじ」と呼ばれ、野球評論家時代にも辛口批評で「球界彦左」「球界のご意見番」などと呼ばれた |
| 苅田久徳の自伝の中に浜崎を指し「私以上の毒舌もの」との件があるが、晩年の1978年に記した浜崎の自著「48歳の青春」の中でも国鉄時代のコーチ・藤村富美男を「外見の印象とは違う幼稚園の子供のようなサインを出す小心者」とか阪急・近鉄監督時代の西本幸雄が、和歌山県出身者と毎日時代の仲間でコーチングスタッフを固めるのを「縁故のある者ばかり呼び集めてもダメ」などと切り捨てている。 |
| 1978年、野球殿堂入り。 |
| 2000年代以降、工藤公康や山本昌など高齢ながら現役を続ける投手が増えたため、浜崎の名前もスポーツ紙などでよく取り上げられる |
参考文献
| 都市対抗野球大会60年史/日本野球連盟毎日新聞社(1990年1月)。 |
|
1917年
|
外野手の補欠として第3回全国中等学校優勝野... |
|
1919年
|
神戸商業に入学 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
工藤公康
愛知県豊明市出身のプロ野球選手(投手)。 |
|
|
鶴岡一人
広島県呉市五番町(現:西中央)出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。戦後の1946年から1958年までは「山本一人(やまもとかずと)」。愛称は鶴... |
|
|
広岡達朗
広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督、野球解説者(野球評論家)。東京都町田市在住。愛称は「ヒロさん」、あるいは単に「ヒロ」。また... |
|
|
山本昌
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身。 |
|
|
湯浅禎夫
鳥取県米子市(旧淀江町)出身の元プロ野球監督、選手。大正から昭和中期(1920年代前半-1950年代前半)にかけて活躍した。大学、ノンプロでの剛腕ぶりから、... |
|
|
西村正夫
香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。日本球界で初めて「バント名人」と呼ばれた選手である。 |
|
|
村山実
日本のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身。1963年の一時期「村山昌史(むらやままさし)」に改名。闘志むき出し... |
|
|
石本秀一
日本のアマチュア野球指導者、プロ野球監督。広島県広島市段原(現:南区的場町)の生まれ。中等野球黎明期からプロ野球黎明期、戦前、戦後と長きにわたり指... |
|
|
藤村富美男
広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦... |
|
|
野村克也
京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。 |
|
|
西本幸雄
和歌山県出身の元プロ野球選手・監督、元野球解説者。 |
|
|
上田利治
徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身の元プロ野球選手(捕手)・監督。現役時代は広島カープでプレーし、その後は広島、阪急ブレーブス→オリックス・ブレー... |
|
|
松木謙治郎
福井県敦賀市出身のプロ野球選手(一塁手)・プロ野球監督・プロ野球指導者・プロ野球解説者。 |
|
|
張本勲
在日韓国人二世の元プロ野球選手(外野手)、現野球解説者・タレント。日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手であり、世界で初めて3000本安打を本... |
|
|
山下実
プロ野球選手。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。 |
|
|
水原茂
香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督・野球解説者・野球評論家。1955年から1959年の登録名は「水原円裕(のぶしげ)」。現役時代は東京巨人軍(1... |
|
|
岩本義行
広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる。 |
|
|
井野川利春
井野川利春(いのかわとしはる、1908年3月30日-1976年6月16日)は岡山県玉野市出身のプロ野球選手・監督・審判員。 |
|
|
仰木彬
福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコー... |
|
|
浜崎真二さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|