| 1986年、第14回参議院議員通常選挙に税金党公認で東京都選挙区から出馬し、落選した。 |
| 1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧東京都第1区から出馬し、初当選した。 |
| 1994年9月に日本新党を離党。 |
| 民主新党クラブを経て、1995年に山花貞夫ら日本社会党を離党したグループを糾合して市民リーグを結成し、代表委員(党首)に就任。 |
| 翌1996年、村山富市の首相辞任に伴う首班指名選挙では、市民リーグを代表したが惨敗した首班指名選挙は立候補する類の選挙ではありません。 |
| その後、新党さきがけを離党した菅直人や鳩山由紀夫らの主導による旧民主党結党に市民リーグとして合流する。 |
| 1996年、第41回衆議院議員総選挙では東京都第1区から出馬し、小選挙区で落選(自由民主党の与謝野馨が当選)、比例東京ブロックで復活当選した。 |
| 1997年10月、金正日の北朝鮮国防委員会委員長推戴を記念する祝賀宴に参加した |
| 2000年、第42回衆議院議員総選挙では東京1区で与謝野を破り当選した。 |
| 同年、民主党東京都連会長に就任。 |
| 同年12月には在日本朝鮮人総連合会の招請による民主党の訪朝団に参加し、北朝鮮を訪問した民主党ホームページ:北朝鮮に訪問団派遣~伊藤英成団長ら議員6名で |
| 2002年、には党政策調査会長に就任した。 |
| 2003年、第43回衆議院議員総選挙では再度与謝野を破り当選した(与謝野も比例復活)。 |
| 2005年、第44回衆議院議員総選挙に東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野に敗れ落選。 |
| 比例復活もできなかった。 |
| 2009年8月、第45回衆議院議員総選挙では東京1区から民主党公認で出馬し、与謝野を破り4年ぶりに当選した(与謝野も比例復活)。 |
| 総選挙後、民主党選挙対策委員長代理に就任した。 |
| 2009年12月10日、小沢一郎を中心とした民主党議員143名、その他民主党支持者500名あまりが参加した小沢訪中団に参加。 |
| 2010年9月民主党代表選挙に一旦は出馬する意向を表明し、小沢一郎にも出馬の意向を伝えた。 |
| しかし、当の小沢が出馬の意向を示したため自身の出馬表明を撤回、代表選挙での小沢への投票を明言した。 |
| 小沢は菅直人に敗れた。 |
| 同年9月に発足した菅第1次改造内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)とともに内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)に就任し、初入閣した。 |
| また、国務大臣として宇宙開発担当「宇宙開発利用に関する施策を総合的かつ計画的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当。 |
| の補職を受けた。 |
| 2011年1月、菅第2次改造内閣では経済産業大臣に横滑りした。 |
| この内閣改造では小選挙区のライバルである与謝野馨も入閣した。 |
| 与謝野の入閣に関し、海江田は「人生というものは不条理だ」と感想を述べた。 |
| 2011年4月11日、国務大臣として原子力経済被害担当「福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所の事故による経済被害への対応を政府一体となって円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当。 |
| の補職を受けた。 |
| 7月7日、原子力損害賠償支援機構法案の成立をめどに辞任する意向を表明し |
| 8月19日、2011年民主党代表選挙に立候補する意向を固め、小沢一郎に支援を要請。 |
| 会見では小沢の党員資格停止処分の見直しを示唆した |
| 23日、内閣総辞職前の辞任を撤回 |
| 8月26日、菅直人内閣総理大臣に辞表を提出するが受理されず |
| 同日、民主党代表選への出馬を正式表明 |
| 28日の討論会などでは、民主党のマニフェスト見直しに関する自民・公明両党との3党合意について「継続するかどうかは新執行部で決めるのがいい」と述べ、白紙で臨む考えを示した日本経済新聞2011年8月29日朝刊。 |
| 29日の代表選では1回目の投票で最多の143票を獲得。 |
| 野田佳彦との決戦投票では177票を獲得したが、215票の野田に及ばなかった。 |
| この要因として、選挙戦で鹿野道彦陣営から山田正彦を引き抜き反発を招いたことや、TPPを推進する姿勢がぶれたことが挙げられている |
| なお翌日の衆議院本会議における内閣総理大臣指名選挙では、小沢を慕う松木謙公より一票を投じられている{{Citeweb。 |
| 2011年9月野田内閣の発足に伴い経済産業大臣を退任し、衆議院財務金融委員長に就任。 |