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| 背番号16を与えられて入団時より大いに期待され、プロ入り1年目から開幕一軍入りを果たす。 |
| 6月18日、交流戦最終戦のヤクルト戦でプロ初勝利。 |
| 同年、ファームの優秀選手を受賞。 |
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| 先発ローテーションに定着し、高卒ルーキーの炭谷銀仁朗と共に10代でバッテリーを組み、話題となる。 |
| 3月26日のオリックス戦にて炭谷とのコンビで勝利投手となり、また4月23日の東北楽天戦では同じく炭谷とのバッテリーで自身初の完投および完封勝利を記録した。 |
| 10代バッテリーでの勝利は1989年、横浜大洋ホエールズの石井忠徳-谷繁元信以来17年ぶりだった。 |
| 6月はリーグ1位の防御率、3勝1敗で初の月間MVPを受賞。 |
| 監督推薦でオールスター初出場。 |
| 8月19日の対福岡ソフトバンク戦で、「西武ライオンズ発足以来パ・リーグ公式戦通算2000勝目」の勝利投手となった。 |
| これは当初西武球団広報や通信社の記者にも気付かれておらず、インターネットのBBSに投稿されたファンの情報によって初めて明らかになったことが文化放送ライオンズナイターの中川充四郎公式サイトで公表された。 |
| オフには怪我で辞退した福留孝介に替わり日米野球に選出。 |
| 1イニングの登板ながら好投を見せ、ジャーメイン・ダイからは「いずれメジャーで通用する素晴らしい投手だった」とコメントされた。 |
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| この年よりボストン・レッドソックスに移籍した松坂大輔の後を受けてチームの中心的投手となる。 |
| デビュー時の速球中心の投球から打たせて取る投球にモデルチェンジしたことで勝ち星を積み重ねた。 |
| 4月3日の対福岡ソフトバンク戦の5回表には、プロ野球史上12人目となる1イニング4奪三振を達成。 |
| 最終的に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、両リーグ最多の213投球回と199被安打を記録。 |
| 完投数11はリーグ2位だった。 |
| 12月の北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグの日本代表メンバーに、ダルビッシュ有と並び最年少で選出され、初戦の先発を任され、フィリピンを相手に6回1安打無失点の好投を見せた。 |
| ちなみに先発を告げるため星野仙一の部屋に呼ばれた際、涌井本人はてっきり代表落選の知らせだと思いこみ「行きたくありません」と駄々をこねたという。 |
| テレビ朝日「激闘!アジア最終予選」。 |
| 契約更改の際、球団側から背番号18への変更を打診されるも固辞。 |
| 「投手のタイトルを全て獲るくらいでないと変えられない」という背番号18の重さと「西武になってから16番を付けたのは3人(松沼雅之・潮崎哲也・涌井)だけ」と西武投手陣の一角を担った背番号16の先輩に対する敬意を理由に挙げている。 |
| ベースボール・マガジン社「西武ライオンズ30年史」より。 |
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| 3月20日のオリックス戦にて初の開幕投手を務めた。 |
| シーズン序盤は防御率1点台と比較的好調でチームは勝利していたが自身は勝利に恵まれず、開幕から4試合目の4月10日のロッテ戦まで勝ちがつかなかった。 |
| この試合で決勝打を打った細川亨は「今日は涌井のためだけに打った」とそれまで中々勝ちがつかなかった涌井を労った。 |
| 前年に最多勝を獲得したが、技巧的なピッチングが「若々しくない」と評されることがあり球速を上げるため春から調整法を変えていた。 |
| 夏場までに球速アップを達成するのがめどであったが、効果が表れたのはポストシーズン以降であり、中盤以降はやや低調な成績が続いた。 |
| 8月には北京オリンピック野球日本代表に選出され、台湾戦と中国戦の先発を任されて2勝をあげた。 |
| 韓国戦の中継ぎとしても登板し、この大会の日本代表投手の中で最多イニング登板となった。 |
| なお韓国戦で涌井がリリーフ登板した場面は、当初の順番ではダルビッシュが中継ぎとして登板する予定で、涌井は一度肩をつくっていたが休んでいた。 |
| 急遽予定が変更されたがブルペンの電話が故障していてベンチの指令が伝わらず、涌井は準備不足の状態でマウンドにあがることになったと後に大野豊が明かしたhttp://www.daily.co.jp/baseball/2008/08/23/0001366222.shtml。 |
| 帰国後は国際球とNPB球との違いに苦しむなど与四死球率は前年の2.45から3.07と悪化。 |
| 3年連続となる2ケタ勝利を達成したものの11敗と負け越してしまうが、チームはリーグ優勝を飾った。 |
| クライマックスシリーズでは1、5戦に先発、計15回を投げ1失点、2勝を挙げた。 |
| 第5戦は7回二死まで走者を許さず、最終的には3安打無四球完封勝利で胴上げ投手となり、シリーズのMVPに輝く。 |
| 当初はシーズン後半不調であった涌井を1戦目に起用することには賛否両論あったが、「大舞台に強い」という理由で監督の渡辺久信が登板を決断し、見事期待に応える形となった |
| 読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦、第5戦に先発、第7戦に中継ぎで登板。 |
| アジアシリーズでは決勝の統一ライオンズ戦に先発し6回2/3を無失点に抑え優勝に貢献した。 |
| シーズンオフの契約更改でこの年も球団から背番号18を打診され、悩みぬいた末に背番号を変更を決意。 |
| それまでの背番号16は石井一久に受け継がれた。 |
| これは2009年を最後に石井が引退するという噂があり「最後にカズさんに16をつけて欲しかった」と週刊現代のインタビューで語ったが、石井は翌年も現役を続行した。 |
| 2009ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、主に中継ぎ、ワンポイントとして好投。 |
| 4月3日の開幕戦では2年連続2回目の開幕投手をつとめる。 |
| 開幕投手はアメリカ遠征中に渡辺久信から直接電話を受け打診された。 |
| このため3月26日夜にWBCから帰国し、翌27日のデーゲームのオープン戦に先発して調整するというハードスケジュールであった。 |
| 開幕から安定した投球を続け、7月には4試合4勝0敗防御率1.64の成績で月間MVPに選出された。 |
| 前年よりの球速アップへの取り組みや筋力トレーニングを積極的に取り入れたこともあり球威が上がって奪三振数が増え、これまでの技巧派のイメージから一転して伸びのあるストレート主体の投球に切り替わった。 |
| しかし抑えの切り札であったアレックス・グラマンが5月に左肩関節炎で離脱し、チームの中継ぎ陣が不安定になり、先発した試合では完投を余儀なくされるようになる。 |
| さらに8月には主砲の中村剛也が怪我で一時的に離脱してチームの得点力が著しく低下し、8月から9月にかけては5試合連続9回まで投げたが2回しか勝ちがつかずうち2度は同点だったため完投も記録されなかった。 |
| 最終的に16勝6敗で2年ぶりの最多勝を獲得し、4年連続の二桁勝利を達成した。 |
| 防御率2.30、奪三振数199はリーグ2位といずれも自己最高であり、両リーグで唯一人、全ての選考基準を満たしたことで、2009年度の沢村賞を受賞した。 |
| 2009年オフに、出身地である松戸市の市民栄誉賞を受賞し、通算勝利数に応じて市に寄付をすることが発表された。 |
| 石井貴の引退試合、赤田将吾のトレード発表の際には、人目もはばからず号泣する姿が報道された |
| その後は不安定な投球が続くが、原因としては長年の勤続疲労を取るために前年秋季キャンプからオフの間徹底したノースローで肩を休め、キャンプでも投げ込みや走り込み量を減らしウェイト中心の調整をしたためによるスタミナ不足と、大迫コーチは分析している。 |
| 4月9日のは千葉ロッテ戦では前日の練習中に味方打者の打球が後頭部に直撃し病院で検査を受けるというアクシデントに見舞われた。 |
| 5月15日の横浜ベイスターズ戦では4打数3安打4打点の活躍を見せ、プロ入り後及びパ・リーグの投手として交流戦史上初の猛打賞を獲得した |
| その後は石井一久と岸孝之が相次いで負傷離脱したため、中継ぎ温存のため毎試合完投を前提に投げることを余儀なくされた。 |
| しかしこの夏の記録的な猛暑で登板中に脱水症状を起こし足を吊って降板するなど体力を消耗し、途中まで好投するも試合後半に突発的に打ち込まれて大量失点するケースが目立ち、。 |
| 再調整して臨んだクライマックスシリーズ第一ステージ初戦千葉ロッテ戦では開幕戦同様成瀬善久と投げ合い、8回1失点の好投を見せ2008年同様ポストシーズンに強い所を示した。 |
| 涌井と球団双方が、2011年1月12日日本プロ野球組織に年俸調停を申請した2011年1月29日の朝日新聞朝刊23面。 |