| 子供の頃から熱烈な巨人ファンであった清原本人は巨人入りを熱望していたが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。 |
| 当の清原は南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団から1位指名を受けた(KKドラフト事件)。 |
| もし巨人に入団できなければ、同一リーグで実家から近い阪神を希望するも、抽選の結果西武が交渉権を獲得。 |
| ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された後に関西の番組にて、記者会見を行った机は、巨人の桑田指名とほぼ同時に真っ二つに叩き割ったと語った。 |
| また清原を慕っていた後輩達が桑田のもとへ報復に行こうとなったところ、清原が制したという。 |
| 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。 |
| 男なら見返してやりなさい。 |
| 泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くしたなお、この年の巨人はチーム事情から桑田を含めて1位から4位まですべて投手を指名。 |
| また当時の巨人は一塁に中畑清、三塁に原辰徳がおり、さらにセ・リーグ球団であることから指名打者での出場はないため、巨人に入団しても当初は出場機会は少なかったと考えられる。 |
| 当の清原も著書で、当時の巨人が投手整備が急務だったこと、巨人側が確実に1位指名をすると確約していたわけではなかったことを認めている。 |
| ただ、その当時の自分は若く、その事実を認めることができなかったと述懐している。 |
| 清原はそのまま西武に入団。 |
| 「背番号3」が与えられた。 |
| ルーキーイヤーの、開幕2戦目に守備固めで登場すると、第1打席の四球の後第2打席にはプロ初安打となる初本塁打を打つ。 |
| その後も打ち続け、高卒新人では史上最多の31本の本塁打を放って新人本塁打記録の最多タイを記録。 |
| 打率.304及び打点78も同じく高卒新人の歴代最高記録で、新人王に選出された。 |
| その年の日本シリーズには8試合すべてに4番・ファーストで先発出場し、日本一に貢献している。 |
| またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。 |
| 黄金時代の西武にあって4番に君臨し、3番・秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。 |
| 88年はタイ・バンバークレオも入って、「AKB砲」となる。 |
| 89年以降はオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。 |
| 全盛期には『三冠王に一番近い男』と呼ばれた。 |
| 1995年主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、1996年には入団して初めての負け越しと黄金期に終止符を打った。 |
| 清原も95年に右肩の脱臼の影響でプロ入り初の一軍登録抹消となる。 |
| かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、入団4年目の6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。 |
| 3年後の6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成した。 |
| 引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。 |
| 年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。 |
| 1986年からまでの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年-1988年、1990年-1992年)に貢献。 |
| 日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。 |
| なお、西武入団時は自分に合うサイズのヘルメットがなく困っていたところ、たまたまに同球団で引退した野村克也のヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。 |
| その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。 |