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プロフィール
- 渡辺久信とは
- 来歴・人物
- 現役時代
- 引退後
- 年度別投手成績
- 年度別監督成績
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 背番号
- 著書
- 関連項目
渡辺久信(わたなべひさのぶ、1965年8月2日-)は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。より埼玉西武ライオンズ監督。愛称は「ナベ」、「ナベQ」。
来歴・人物
| 前橋工業時代から速球派の大型投手と期待された。 |
| 中学時代から140km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。 |
| 当時の桐生高校は、阿久沢毅・木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備。 |
| 専属の家庭教師をつけて、受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念。 |
| 結局、前橋工業高校に進学したAERA2000年5月15日号。 |
| 優勝候補筆頭として出場した、高校3年の夏の選手権大会地方予選(県予選)では、決勝の最終回に押し出しフォアボールで太田工業高校にサヨナラ負けを喫した。 |
| 渡辺が甲子園に出場したのは1年生の夏(1981年)のみで、この時も準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫している。 |
| 1983年のプロ野球ドラフト会議において、西武ライオンズは高野光を1位指名、しかし抽選に外れ、「ハズレ1位」プロ野球ドラフト会議において、複数の球団が同じ選手を1位指名した場合、抽選を行う。 |
| その際、抽選に外れた球団が他の選手を1位指名することを「ハズレ1位」と言う。 |
| で渡辺が指名され、入団した。 |
現役時代
| 1年目から一軍に定着し、快速球とフォークを武器に3年目のは最多勝、最多奪三振の二冠となった。 |
| も最多勝となるなど、東尾修、工藤公康、郭泰源、松沼博久らと共に西武黄金時代の柱としてチームを支えた。 |
| 現役時代は、私服でDCブランドを着こなし、さらにグラウンド内外でのアクションが球界や社会に影響を与え工藤、清原和博らと共に『新人類』と呼ばれた |
| 長身でスリムなことから西崎幸広、阿波野秀幸、星野伸之らと「トレンディエース」と並び称され、絶大な女性人気があった。 |
| だが1991年あたりから頭髪が薄くなってしまって、女性ファンからの人気は徐々に減っていってしまったという。 |
| 選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んでイケメンと言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。 |
| 広岡監督の“管理野球”には辟易した。 |
| 寮に初めて入るとご飯が茶色。 |
| 今の玄米は美味しいが当時は非常にマズかった。 |
| さらに豆乳も昔の物は非常にマズかったという。 |
| 自身、一番管理されるのが嫌いなタイプで、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという週刊ポスト、2009年2月6日号、68、69ページ。 |
| しかし「今思えばその経験が良かったと思う。 |
| 『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。 |
| 最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。 |
| そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」週刊朝日、2009年4月10日号、35ページ。 |
| 、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している |
| その後は西武の元監督、東尾修の勧めもあって、指導者の勉強のため台湾に渡り、台湾大聯盟・嘉南勇士のコーチとなる。 |
| しかし、チームの投手陣の弱体さのカバーと、言葉が不自由なことから身をもって教える方が分かりやすいとの判断から急遽選手兼任となる。 |
| 1年目から18勝を挙げ台湾球界を代表するエースとして名を轟かせたほか、石井丈裕、郭泰源らと台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。 |
| 限りで現役引退。 |
| この結果、日本球界において、有名選手あるいは所属球団への貢献度の高い選手の引退時に恒例となっている引退試合は行われることがなく(嘉南勇士時は不明)、引退することとなった。 |
| 台湾での経験について、渡辺は自著の『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と言っている。 |
| 西武時代のチームメイトだった工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。 |
| 工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性(と人気)をどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。 |
| また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。 |
| シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。 |
| 僕がマッサージを受けてる横から「工藤さん、お先です」って行って飲みにいってしまったの。 |
| 今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている文藝春秋2008年5月号工藤公康・あさのあつこ対談「バッテリーは永遠の友情の絆」なお、渡辺から見て先輩に当たる工藤は、その後、渡辺が監督の西武に現役選手として所属していた時期がある。 |
| 」とその手腕を絶賛した。 |
引退後
| 引退後は、テレビ朝日、テレビ埼玉、文化放送、日刊スポーツなどで野球解説者を務めた。 |
| 怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う人物である。 |
| 新人で、台湾時代に素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、エラーをした後ファインプレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ!」と怒鳴りつけたこともある。 |
| 西武の二軍監督時代からもその方針は変わらないため、二軍から一軍へ上った選手は、一軍の渡辺監督のあまりの豹変っぷりに戸惑っていた、と渡辺自身は話している。 |
| 同様に選手に対しては無闇に怒らないと自述しているが、それに対して試合中の審判とのトラブルは非常に多い。 |
| また、2008年シーズンには年長の王貞治と口論する場面すら見受けられた(試合中に王と口論した監督は、他には王の胸倉を掴んだ星野仙一だけである)。 |
| また、同年のシーズンに口論には至らなかったものの野村克也にも気性をたしなめられる場面があった。 |
| このように、自著のタイトルにある「怒らない」とは裏腹に、現場・試合中では闘将ぶりを発揮している。 |
| 伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一だったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の以来。 |
| また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初である。 |
| 新人監督の日本一は、湯浅禎夫(毎日・1950年)、川上哲治(巨人・1961年)、藤田元司(巨人・)に続き4年ぶり8人目。 |
| また、投手出身監督が日本一になるのは湯浅、金田正一、藤田、権藤に続き10年ぶり5人目。 |
| 2011年は前半戦15年ぶりの最下位、32年ぶりの負け越し15、球団初の3カード連続の同一カード3連敗を喫した |
年度別監督成績
| 順位の太字は日本一。 |
| 勝敗の太字は勝利したシリーズ。 |
| ※1 2008年のクライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ。 |
| ※2 アドバンテージの1勝を含む。 |
| ※3 アジアシリーズ2008の詳細は2008年のアジアシリーズの項を参照のこと。 |
タイトル
| 最多勝:3回(1986年、1988年、1990年)。 |
| 最高勝率:1回(1986年)。 |
| 最多奪三振:1回(1986年) ※当時はタイトルではない。 |
表彰
| ベストナイン:1回(1986年)。 |
| ゴールデングラブ賞:1回(1990年)。 |
| 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1990年、1991年)。 |
| 正力松太郎賞2008年。 |
| 桐生市民栄誉賞2009年1月。 |
記録
| オールスターゲーム出場:6回 (1985年-1986年、1988年-1990年、1992年)。 |
| ノーヒットノーラン:1回(1996年6月11日、対オリックスブルーウェーブ戦、西武ライオンズ球場) ※史上63人目。 |
| 通算連勝:6(1986年第6戦~1993年第3戦、シリーズ記録)。 |
| 2試合連続完封勝利(1990年第1戦、1991年第3戦、シリーズタイ記録)。 |
| 通算暴投:6(シリーズ記録)。 |
| シリーズ暴投:2(1988年、1993年、シリーズタイ記録、2度記録したのは渡辺のみ)。 |
| 1試合暴投:2(1988年第1戦、シリーズタイ記録)。 |
背番号
| 41(1984年-1997年)。 |
| 21(1998年)。 |
| 74(2004年-2007年)。 |
| 99(2008年-)。 |
著書
| 『寛容力〜怒らないから選手は伸びる〜』(講談社2008年11月11日)ISBN978-4062150002。 |
関連項目
| 群馬県出身の人物一覧。 |
| 埼玉西武ライオンズの選手一覧。 |
| 東京ヤクルトスワローズの選手一覧。 |
| ノーヒットノーラン達成者一覧。 |
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1965年
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渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ)は、群馬県出... |
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1996年
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ノーヒットノーラン:1回(対オリックスブル... |
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投票数
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埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。の登録名は雄星。 |
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埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(内野手)。愛称はヤス、また、年下の選手からはヤッさんと呼ばれている。 |
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工藤公康
愛知県豊明市出身のプロ野球選手(投手)。 |
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埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(内野手)。愛称は「ナカジ」。マネジメント契約先はスポーツビズ。 |
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河田雄祐
元プロ野球選手(外野手)。現在、埼玉西武ライオンズ1軍守備走塁コーチ。 |
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台湾出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代の愛称はオリエンタル・エクスプレス、オリエント・エクスプレス。 |
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岸孝之
埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。マネジメント契約先はスポーツビズ。 |
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