| 静岡県立沼津中学卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。 |
| 卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。 |
| 劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。 |
| 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩之に紹介されるチャンスがあり、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 |
| 村田実監督『青春の歌』(1924年)での運動会の応援団の旗手が最初の役。 |
| 尾上松五郎のスタンドインまでやらされる。 |
| 大部屋女優と結婚するがスターの児島三郎と駆け落ちされるなど苦い下積み生活を送る。 |
| 当時の巨匠・池田冨保の助監督になり、早撮りのテクニックをマスター。 |
| 1928年に日活京都は太秦撮影所に移り、池田が長谷部義臣のペンネームで脚本を書いた『剣乱の森』(1928年)で監督デビュー。 |
| 各社競作になった『さくら音頭』(1934年)は5日間も徹夜し9日間で撮りあげ、他社を出し抜いて公開し大成功。 |
| “早撮り監督”として認められる。 |
| 中国への侵略戦争とともに召集を受けて戦地へ行き、国策映画が流行すると『召集令』(1935年)といった映画まで作る。 |
| こうした中でミュージカル調『うら街の交響楽』(1935年)が東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクールで1等入選。 |
| 1936年の二・二六事件後、岡譲二主演の前後篇の大作『高橋是清伝』(1936年)が公開され評判になる。 |
| 1937年に東宝に移籍し、長谷川一夫の東宝入社第1作『源九郎義経』の監督に指名されるが、林長二郎を名乗っていた彼が松竹系の会社に雇われたヤクザに顔を斬られる事件が起こり製作中止。 |
| その後、長谷川と李香蘭の主演により、満州ロケを敢行したロマンスもの『白蘭の歌』(1939年)は驚異的なヒットになる。 |
| 戦後は原節子主演で2本『緑の故郷』『麗人』(1946年)を一気に撮りあげる。 |
| 東宝撮影所内では、「菊旗同志会」という反共右派グループを主宰し、折から起こった東宝争議では反組合のリーダー格となった。 |
| 東宝社長・渡辺銕蔵からの命令を受けて、愚連隊の首領・万年東一に、日比谷の映画館のスト破りを依頼した。 |
| 1947年、反組合の東宝脱退組で作られた新東宝に移り、同社第1作『今日は踊って』(1947年)を監督。 |
| 富田常雄原作『誰か夢なき』(1947年)は大学出のラグビー選手を巡る三人の女性のすれ違いメロドラマで、主題歌とともに新東宝最初のヒット作になり、早撮りでプログラム・ピクチャーを量産しヒットさせた。 |
| 1952年には早撮りの巨匠として超高給で東映に移籍し、ヒット作を連発。 |
| 1955年には新東宝の新社長・大蔵貢に取締役として招かれ。 |
| 再び新東宝で活躍。 |
| 神業的な中抜きでわずか1週間で撮り終わった作品もある(通常の作品は30日から45日程度)。 |
| なんと1956年には12本を撮ってみせ、経営危機に陥っていた新東宝は、他の監督も渡辺に倣わせるほどであった。 |
| 当時5億4,000万円の配収をあげた史上空前のヒット作『明治天皇と日露大戦争』(1957年)では、経営に苦しむ新東宝の救世主となり、“渡辺天皇”の異名をとる。 |
| 1958年、新東宝を退社。 |
| 同年、大映オールスター映画『忠臣蔵』を大ヒットさせた後、美空ひばりとコンビで東映の『べらんめえ芸者』シリーズなど、東映、大映、松竹などでフリーで活躍する。 |
| しかし、その後は映画を撮る機会になかなか恵まれず、テレビに移るなど冷遇された。 |
| 久々に撮った松竹の竹脇無我主演『姿三四郎』(1970年)が最後の映画監督作品となる。 |
| 本人の計算では作品数225本。 |
| テレビで『姿三四郎』(1973~1974年)、『柔』(1964~1965年)、『明治天皇』(1966年)、『旗本退屈男』(1973~74年)など209本を監督した。 |
| 1929年5月、姉の世話で結婚。 |
| ヤス夫人との間に一男三女があり、息子・渡辺邦彦は東宝で監督になった。 |
| 1975年、勲三等瑞宝章を受章。 |
| 1976年に健康を害し引退。 |
| 1981年11月5日、肺炎のため死去。 |