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プロフィール
- 渡邉恒雄とは
- 生い立ち
- 学生時代
- 政治記者時代
- 新聞社幹部として
- オーナー就任と制度改変
- オーナー時代の読売巨人軍
- プロ野球再編問題
- 東日本大震災
- 相撲
- Jリーグとの関係
- オリンピック
- 人物
- 略年譜
- 親族
渡邉恒雄(わたなべつねお、1926年(大正15年)5月30日-)は、日本の実業家。読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆。読売巨人軍会長。「 ナベツネ」の通称で知られる。
生い立ち
| 東京都杉並区出身。 |
| 父は平吉、母は花。 |
| 1934年(昭和9年)、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血、一週間後に死去した魚住昭著『渡邉恒雄メディアと権力』23頁。 |
| 胃がんだった。 |
| 恒雄はこのとき8歳だった。 |
| 父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった魚住昭著『渡邉恒雄メディアと権力』23-24頁。 |
| 母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという魚住昭著『渡邉恒雄メディアと権力』25頁。 |
| 「お前は総領だ。 |
| 総領というのは跡継ぎだ。 |
| だからお前は勉強して偉くならないかん。 |
| 成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん母・花の実兄で、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役・柳井信治のことに報告できない。 |
学生時代
| 第一志望の府立高、第二志望の武蔵高、第三志望の府立一中と、つづけざまに受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中にビリに近い成績ですべり込んだ魚住昭著『渡邉恒雄メディアと権力』26頁。 |
| 同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いた。 |
| 1939年(昭和14年)春、開成中学校に入学。 |
| 1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で東京高等学校に入学。 |
| 1945年(昭和20年)4月、東京帝国大学文学部に入学。 |
政治記者時代
| 東京大学文学部哲学科卒業後は読売新聞社に採用試験次席で入社(その年の採用試験首席は、後に作家となる三好徹)。 |
| 「朝日新聞社に入社したかったが採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えているが、本心なのかリップサービスなのかは不明。 |
| 『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。 |
| 『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現鳩山会館)で張り込みをしていた。 |
| あわただしい気配がしたため、屋敷の中をのぞいたが、当時秘書だった石橋義夫が大きな犬を連れてきて、追い出された。 |
| その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄には、「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われた。 |
| 結局、鳩山が倒れた確証を得られないまま、デスクからの「死んだのでないのなら放っておけばいい。 |
| そろそろ帰ってこい」と指示された水木楊『誠心誠意、うそをつく自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁~178頁。 |
| 警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物大野伴睦の番記者になった。 |
| 以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする『渡邉恒雄メディアと権力』145頁。 |
| 渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。 |
| 大野の回想録(『大野伴睦回想録』弘文堂)も大半を渡邉が執筆している。 |
| 児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている『渡邉恒雄メディアと権力』154-155頁、160-166頁、204-216頁。 |
| 、大野の死後は中曽根と親密になった。 |
| 中曽根とは1957年の自民党総裁選の最中に出会った。 |
| 渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。 |
| 大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。 |
| 1982年の総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた『渡邉恒雄メディアと権力』132-134頁、355-360頁。 |
| 1966年の国有地払い下げ問題でも大きな役割を果たしている『渡邉恒雄メディアと権力』260-274頁。 |
| この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。 |
新聞社幹部として
| 1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。 |
| 読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の一エピソードである。 |
| 同年、取締役論説委員長に就任した。 |
| 1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。 |
| 1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。 |
| 世論の大多数が憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。 |
| その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が反対を上回ることが多々見られるようになった西川伸一 |
| 1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」(著作物の再販制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や小売価格を指示してこれを維持させていること))に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所がつぶれてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した |
| その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。 |
| オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。 |
| 2005年、読売新聞グループ本社の会長に就任。 |
| 2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 |
| 朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。 |
| 保守的な言動で知られているが、首相の靖国参拝や歴史修正主義の動きには反対の立場を取っている。 |
| 軍隊生活で上官に暴行を受けた経験などから日本の軍国主義に対し嫌悪感を抱いているとされる。 |
| 特攻については「人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく汚辱だと思わざるを得ない」と述べている |
| 盟友の中曽根を強引に引退させた衆議院への小選挙区比例代表並立制導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に比例北関東ブロックの名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部(自民党総裁橋本龍太郎及び自民党幹事長加藤紘一)が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした。 |
| 小泉純一郎政権に対しては極めて批判的であった。 |
| 小泉首相の靖国神社参拝に際し、「もしもメルケル(ドイツ首相)がヒトラーの墓参りをしたらどうなるのか」「(靖国神社の)遊就館は非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない。 |
| 産経新聞を除いて日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。 |
| 自民党員および元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に2007年の自民党と民主党の大連立構想の黒幕であったと報じられている。 |
| 小沢一郎は朝日新聞の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。 |
| 2007年10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴毎日新聞2010年11月25日渡辺恒雄氏を元部下が提訴「虚偽の発言で名誉棄損」47NEWS・共同通信社2010年12月25日 |
オーナー就任と制度改変
| 渡邉が巨人の経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは務臺光雄(同社名誉会長)・小林與三次(同社社長)・正力亨(巨人軍オーナー)‐肩書はいずれも当時)。 |
| 1991年に務臺が死去した後しばらくは沈黙していた渡邉だったが、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。 |
| 「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの巨人軍の人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナーの人事も決める男と言われた。 |
| 日本プロ野球選手会は、米メジャーリーグにならってドラフト制度を改革し、同時にFA制度を導入することを希望していた。 |
| その選手会の要望に端を発したFA制度導入論に勢いを得て、資金力のある球団が有利になるドラフト制度逆指名システムやフリーエージェント(FA)制度などの導入に際して、渡邉はオーナー会議の席上で、(大新聞・系列スポーツ紙は価格カルテルや再販制度、記者クラブ等で自由競争をしていないことが問題視されているにもかかわらず)「自由主義社会なら自由競争するのが当たり前」と言い放ち、「反対するなら脱退して新リーグを結成することも辞さない」などと発言をして、意見を異にする他球団の同意を強く求め、同制度を実現。 |
| メジャー・リーグは外国人制限もなく、ドラフト制度は、前年度成績の低かった球団の順に、新人選手を採用できる完全ウェーバー方式を採用しており、戦力を均衡するという理念によって成り立っている。 |
| また、有力選手は容易にメジャー・リーグに移籍することができるようになり、「日本プロ野球はメジャーの事実上の下部組織になってしまった」と言う人も増え、かなり多くの日本の野球ファンの関心が北米のメジャーに移ることとなった。 |
オーナー時代の読売巨人軍
| スター・システムの考え方に基づき、手っ取り早くチームを強化するため、圧倒的な資金力を背景に逆指名やフリーエージェント制度を利用して他チームの有名選手を集めたが、監督には他球団で功績を挙げた優秀な人材を得ようとはせず、長嶋茂雄のような巨人生え抜きのスターにこだわった。 |
| 長嶋の希望により清原和博や江藤智、広澤克実、石井浩郎ら各球団の4番バッターや工藤公康らエースを集めた。 |
| 2003年終盤にリーグ優勝の望みが絶たれ、球団は翌年のコーチ編成や他球団からのエース級の大型補強を嫌う原辰徳監督と対立、原が監督を辞任して堀内恒夫の監督就任で事態が収拾したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した。 |
| 長嶋の長男長嶋一茂に巨人軍から「球団代表特別補佐」の肩書きが与えられた背景には、2004年夏西武ライオンズのオーナー堤義明が巨人軍に所属し不本意なシーズンを送っていた清原の再獲得を希望し、渡辺オーナーの許可を得たとはいえ球団外の人間でありながら清原と交渉し清原が一茂・巨人軍両方に不信感を露にした事が発端。 |
プロ野球再編問題
| 2004年、パ・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の間に合併話が持ち上がった。 |
| 更に、同リーグの福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)と西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)には親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。 |
| この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。 |
| 堀江は仙台ライブドアフェニックス設立構想を持っていたが,この構想は楽天のプロ野球チーム・東北楽天イーグルスの影響で立ち消えとなっている。 |
| 2リーグ12球団の維持を主張していた古田敦也日本プロ野球選手会会長(ヤクルト、肩書は当時)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。 |
| 世論に後押しされる形で日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。 |
| 11月に、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。 |
東日本大震災
| 2011年3月16日の巨人軍激励会燦燦会の挨拶で、東日本大震災に伴う日程見直しについて「この前の大戦争で負けた後、選手、監督から3カ月でやりたいという声が上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した巨人・渡辺会長、25日開幕を主張=プロ野球時事ドットコム2011年3月16日。 |
相撲
| 渡邉は1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。 |
| 2001年から2年間は委員長を務め、若貴ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。 |
Jリーグとの関係
| 読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。 |
| 1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。 |
| 1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立し、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。 |
| 元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市に本拠地を置いた経緯があったが、同じような経緯で旧浦和市を本拠地にした浦和レッズがJリーグ屈指の人気チームに成長したため本拠地を巡るヴェルディと川崎市の確執が浦和とレッズの成功例と対比される事も多い。 |
| その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(味の素スタジアム)に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり2005年のJ2降格と2007年のJ1再昇格を経て、2008年に現名称の「東京ヴェルディ」となった。 |
オリンピック
| 2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国・台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュアの日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。 |
| 日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邉は、巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。 |
人物
| 葬儀は音楽葬の形式で、また、読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だと記載している(ただし、この分野のノーベル賞は2010年現在、現実には存在しない)。 |
| 酒豪と健啖でも知られ、長嶋一茂が連れて行ったカレー専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという『長嶋一茂の言いたいこと言えなかったコト』第34回週刊新潮2010年1月14日号。 |
略年譜
| 1月5日に刊行された論座(朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・『朝日新聞』論説委員と行う。 |
親族
| 父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役だった柳井信治は伯父(母・花の実兄)。 |
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読売サッカークラブを創設 |
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編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日... |
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