| 賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。 |
| 揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていくことが許され、その他一斉が不問とされた。 |
| 230年には征東将軍となった。 |
| 冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集することを上奏し侵攻に備えた。 |
| 孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。 |
| 孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、勝利することはできなかった。 |
| 231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。 |
| 揚州刺史の王淩はこれを出迎えたいと申し出てきたが、満寵は投降は偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。 |
| たまたま入朝する用事が出来たため、留府長史には、王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍にわずかな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせ、孫布の夜襲により兵を多く失うことになった。 |
| 満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵が老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。 |
| 満寵と目通りした明帝は、満寵が壮健なことを確認できたため『世語』によると、王淩が満寵は酒びたりになっているから召喚すべきと上奏し、明帝もそのつもりになったが、給事中の郭謀という者が満寵のために弁護をしたため、明帝は試しに満寵に酒をすすめたところ、1石飲んでも乱れなかったため、留任させることに決めたという。 |
| 、任地に返そうとしたが、満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。 |
| 明帝は満寵を馬援、廉頗になぞらえ鼓舞した。 |
| 232年、呉の陸遜がロ江に侵攻してきた。 |
| 部下達はすぐに救援にいくよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。 |
| 軍を整え、陽宜口まで来たところで呉軍は退却した。 |
| このころ、呉の孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。 |
| 合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。 |
| 233年、満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。 |
| 護軍将軍の蒋済は弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになることを理由に反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。 |
| 尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、明帝の聴許を得た。 |
| こうして合肥新城が築かれた。 |
| 同年、呉の孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が水から遠い場所にあったため、あえて上陸しようとしなかった。 |
| しかし、満寵は孫権は魏が弱気になっていると決めてかかって必ず襲撃してくるに違いないと判断し、伏兵として歩兵と騎兵を6千を用意したところ、果たして孫権は上陸して攻めかかってきたため、伏兵によりこれを撃退し、数100の首を斬った。 |
| 234年、呉の孫権は、蜀(蜀漢)の諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)に呼応して、陸遜、孫韶といった将軍を引き連れ数万の軍勢と呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。 |
| 満寵は、当初は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出、明帝に拒絶されている(「明帝紀」)。 |
| 満寵は、合肥新城に救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火攻めをかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払い、さらに孫権の甥の孫泰を射殺する戦果を挙げた。 |
| 明帝が自ら援軍を率い、将軍の張穎達も力を尽くして戦ったため、孫権は明帝の援軍が到着する以前に撤退した。 |
| 235年春、呉の孫権は、江北に兵をおくり屯田を始めさせた。 |
| 満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断し、各地の県長に軍を率いさせ東上させ、各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払う戦果を挙げた。 |
| 詔勅により軍功が称され、鹵獲品はすべて将兵の恩賞とされた。 |
| 明帝が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月「三少帝紀」、老年のため中央に召喚され太尉となった。 |
| 家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。 |
| 加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。 |
| 242年3月「三少帝紀」、満寵は逝去した。 |
| 景侯の諡号を贈られた。 |
| 子孫の満偉(子)、満長武(孫)、満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。 |
| 満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。 |
| しかし、司馬昭に疎まれ、殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に陥された。 |
| 満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸侯賛』)西晋の時代に尚書、司隷校尉となった。 |
| また満寵のもう一人の子、満炳は別部司馬となった李善注『文選』巻42、応璩「与満公琰書」題下注に引用する賈弼之『山公表注』には「満寵、子炳、字公琰、為別部司馬」とある。 |
| 小説『三国志演義』では、満寵は劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉の配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。 |