| 父は斎藤道三で、母は明智光継の娘・小見の方。 |
| 明智光秀とは従兄妹同士という説があるが、光秀自身の前半生が不明であるため確定は出来ない。 |
| 信長は夫婦別居した部下を叱ったり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)夫妻の喧嘩に仲裁に出たりと、家庭における妻の内助の役割を高く評価していた言動が多いものの、実際の彼の妻である濃姫の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。 |
| 天文18年2月24日(1549年3月23日)に政略結婚で信長に嫁いだ。 |
| 二人の間には子ができなかったというのが通説だが、信長の子供は生母不明の者が多く、本当に子がいなかったかどうかは確認できない。 |
| 二人の間に娘のいる家系図が残っていたり、御台出産記事のある文献もある。 |
| ただし、一次資料ではないため無視されている。 |
| 前述のようにその人物像は不明で、織田氏に嫁いだ後の消息は早世説・離婚説など諸説に分かれている。 |
| 本能寺の変の際に薙刀を振るって夫・信長とともに敵兵と戦って戦死したという説もある。 |
| 一方で、濃姫の生存を示すのではないかと考えられる史料として、信長が足利義昭を擁しての上洛の後の永禄12年(1569年)7月の『言継卿記』に斎藤義龍後家を庇う「信長本妻」の記述がある。 |
| また、同年の日記に「姑に会いに行く信長」の記述も見られる。 |
| 『近江國輿地志』にも、信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述もあり、おそらく永禄11年(1568年)頃の記述と思われ、前述の『言継卿記』の記事の前年である事から帰蝶の事と考えられる。 |
| なお当該記事には、御台出産が書かれている。 |
| また『勢州軍記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ織田信忠(幼名、奇妙または奇妙丸)を養子とし嫡男とした、などの記述も見られる。 |
| また『明智軍記』にも尾張平定後の饗膳の際に、信長内室(正室の濃姫)が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、家臣達にたくさんのあわびなどを振舞ったという記載がある。 |
| 『明智軍記』は元禄年間(最古の元版は1693年版)の幕府作成のものであるので、史実と異なる点や歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも作成時の段階では一般的に濃姫は尾張平定後も信長の正室として存在しており、道三亡き後濃姫が離縁された、亡くなったというような事実はなかった、という認識だったのではないかと推測できる。 |
| 『織田信雄分限帳』に「安土殿」という女性が、600貫文の知行を与えられているのが記載されており、女性としては信雄正室、岡崎殿に続き三番目に記載され、信長生母と推測される「大方殿様」よりも先に記載されていること、安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、織田信雄の亡き父・信長の正室にあたるのではないかとも考えられる。 |
| また(「局」が「妻子の居住する空間」を示すことから、奥でもっとも権威のあった正室を「御局」と称したとも考えられ)、『織田信雄分限帳』に記載されているもっとも知行の多い「御局」という人物が濃姫という可能性もある。 |
| あるいは、信雄から見て父信長の正室である濃姫は、「大方殿様」の立場にあたるため、「大方殿様」が(土田御前ではなく)濃姫だとも考えられる。 |
| 「安土殿」「御局」「大方殿様」のいずれかが濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。 |
| 現在はこの説が最有力である。 |
| 『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」の記述が見られ、安土殿(または御局)と同一人物とも推測できる。 |
| この「御台所」「北の方」が濃姫だったとすると、本能寺の変の翌日であることから考えて、変時に彼女が本能寺にいたとするのは時間的に無理がある。 |
| 結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説、奥を取り仕切るだけの器量がなかったなどという評価がなされる事があったが、実際は信長の閨房における醜聞が一切表に出ずきちんと取り仕切られていたことから、決して無能な女性ではなく一正室多側室多愛妾多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だったと考えることもできる。 |
| また婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状がある以上は、濃姫を正室としておくことが信長にとっても必要不可欠であった事もあり、その道三と対立した、兄・斎藤義龍筋の斎藤氏との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられず、美濃攻略を推し進めて行った背景には道三の息女であり、また土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫の(義龍が道三実子であった場合、土岐氏と血縁関係はない事になる)、婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分があったためという推測も成り立つこと、美濃攻略後に美濃衆や加治田衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に病気などで亡くなったという可能性も少ないと思われる。 |
| 信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、斎藤氏、土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であればより円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できるためではないかと思われる。 |
| 後、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている(濃姫の兄弟である斎藤利治は信忠の筆頭家老で、信長の主力重臣の一人であり、美濃国の要所である加治田城主になっていることも道三の子で濃姫との重要な関係である)。 |