| 東京女子大学在学中に結婚し、夫の任地北京に同行。 |
| 1946年に帰国し、夫の教え子と恋に落ち、夫と長女を残し家を出て京都で生活。 |
| 大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。 |
| 1950年に正式な離婚をし、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。 |
| 少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。 |
| また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。 |
| 長女とは後年和解する。 |
| 1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、同年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。 |
| その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、「子宮作家」とまで呼ばれるようになる。 |
| その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。 |
| 1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。 |
| 並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。 |
| この時期の不倫の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。 |
| 以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞も大衆文学の賞ももらえないという秘かな不遇のうちにあった。 |
| 1992年、西行を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。 |
| 『源氏物語』の現代語訳でもその名を知られている。 |
| 修道女を志すも過去の行状から断念した。 |
| 1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とする(戸籍上の氏名は、1987年に天台寺住職となった際に瀬戸内寂聴に改名)。 |
| 翌年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。 |
| 尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法( |
| 1988年に出した『寂聴般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。 |
| 麻薬で逮捕された萩原健一の更生に尽くしたことや、徳島ラジオ商殺し事件の再審支援などの活動でも有名。 |
| 山岳ベース事件等で死刑判決を受けた永田洋子とは、永田が獄中で出家して瀬戸内に手紙を書いたことから文通し、控訴審でも証人となった。 |
| 連続ピストル射殺事件で死刑執行された永山則夫とも親交があり、死刑廃止論者でもある。 |
| また、脳死による臓器移植にも反対している。 |
| 1991年2月に湾岸戦争の停戦を祈って7日間の断食を行い、4月には救援カンパと故郷徳島の大塚製薬寄付の薬を持ってイラク訪問。 |
| 同時多発テロの報復攻撃にも抗議し、短期間のハンガーストライキを決行した。 |
| 2005年には、瀬戸内を主人公としたテレビドラマ『女の一代記』が放映された。 |
| この中でも、東京に住みだした後、二人の男性と恋愛関係にあった、と語っている。 |
| 僧侶になったあとは男性との関係をいっさい断っている。 |
| 地方講演などでは主に「笑うこと」が大切であるということを説き、座右の銘は「生きることは愛すること」だという。 |
| 2007年8月11日、館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目の視界が大部分見えなくなったことを明かした。 |
| 「金を取る宗教は偽物」を自らの持論としている。 |
| 平野啓一郎を「豊潤な才能」と評し、金原ひとみの『蛇にピアス』を「(谷崎潤一郎の)『刺青』が霞んで見える」と評した。 |
| 2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。 |
| スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」にて、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。 |
| ペンネームや登場人物の名前の大半に、瀬戸内が長年携わってきた源氏物語関連からの引用が見られる(「パープル」は「紫式部」・主人公の恋人の「ヒカル」は光源氏、など)。 |