| 後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。 |
| 文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。 |
| この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。 |
| 591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。 |
| 楊広の生母の独孤伽羅は一夫一婦意識が強い鮮卑出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。 |
| また文帝自身は質素倹約を是としていた。 |
| ところが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。 |
| この状況を楊広が利用して自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。 |
| 604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝によれば、煬帝は父の愛妾(妃)である宣華夫人に迫ったが、夫人は病室に逃げ戻り文帝にそのことを告げた。 |
| 文帝は怒り、楊勇を呼ぶように命じたがかなわず(このときの罵りは隋書では「畜生」とある)、その直後に張衡が病室に入ってきて女性全員を下がらせたなかで、文帝は崩御したといわれる。 |
| なお張衡は8年後に誅殺される。 |
| 」でも言及している。 |
| 即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。 |
| また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感(煬帝を擁立した楊素の息子)は九族に至るまで処刑されている。 |
| 洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。 |
| 対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。 |
| 更に612年には煬帝は高句麗遠征(麗隋戦争)を実施する。 |
| 高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、これにより隋の権威は失墜した。 |
| また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。 |
| 各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江南に逃れた。 |
| 煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていた。 |
| 618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。 |