| 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。 |
| 熊本中学校で学び、熊本陸軍地方幼年学校に進む。 |
| 陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月、陸軍士官学校(第31期)に入校。 |
| 1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生となる。 |
| 1919年(大正8年)12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 |
| 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校する。 |
| 1928年(昭和3年)12月、同校を卒業する。 |
| 1929年(昭和4年)3月、歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。 |
| 1930年(昭和5年)8月、関東軍参謀部付に移り、翌年10月から関東軍参謀に進む。 |
| 1931年(昭和6年)9月に勃発した満州事変に関与。 |
| 1932年(昭和7年)8月、久留米の第12師団参謀へ配転される。 |
| この時期、第12師団は五・一五事件による軍のファッショを批判する福岡日日新聞に対して嫌がらせを繰り返し、片倉も脅迫状を新聞社へ送っている。 |
| 新聞社を爆撃するとした噂もでたが主筆の菊竹六鼓は「田舎新聞をつぶす?いいでしょう。 |
| いつでも来なさい」と内心の恐怖と戦いながら対決の姿勢を崩さなかった。 |
| 1933年(昭和8年)8月から参謀本部第二部第4課第4班に務める。 |
| この時期に陸軍省・参謀本部の幕僚の座長となって「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」という文書を作成した。 |
| これは、軍人による政治的非常事態が起きた際の対処をまとめたもので、実際に後の二・二六事件の対応はこの文書がベースになったという。 |
| この文書の目的は、皇道派などによるクーデターの鎮圧を利用して、軍主導の強力な政治体制を確立することにあったと、後に片倉は証言している中田整一『盗聴二・二六事件』文藝春秋社、。 |
| 1934年(昭和9年)8月、歩兵少佐に進級し同年12月から陸軍兵器本廠附兼軍務局付で対満事務局に配属(事務官)される。 |
| 1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件に際し陸軍省の玄関で磯部浅一元一等主計に銃撃される。 |
| 1936年(昭和11年)8月、陸軍省軍務局軍務課員に転属し、1937年(昭和12年)3月から関東軍参謀に任ぜられる。 |
| 1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に進級し、同年12月1日、関東軍第4課長に進む。 |
| 1939年(昭和14年)8月1日、歩兵第53連隊長に就任し、翌年の3月9日に歩兵大佐へ進級する。 |
| 1940年(昭和15年)8月30日、参謀本部付に転じ、同年12月4日から陸軍歩兵学校研究部主事を務める。 |
| 1941年(昭和16年)7月17日、関東防衛軍参謀に就く。 |
| 1942年(昭和17年)9月18日、第15軍参謀。 |
| 1943年(昭和18年)3月18日、緬甸方面軍作戦課長に就任する。 |
| 1944年(昭和19年)3月1日、陸軍少将に進級する。 |
| 1944年(昭和19年)4月8日、第33軍参謀長に進む。 |
| 1944年(昭和19年)6月15日、陸軍航空総監部付。 |
| 1944年(昭和19年)12月26日、下志津教導飛行師団長に就任する。 |
| 1945年(昭和20年)4月30日、第202師団長に就任する。 |
| 1945年(昭和20年)8月15日、高崎で終戦を迎える。 |
| 1945年(昭和20年)12月、復員する。 |
| 戦後は商事会社経営の他、1958年(昭和33年)1月23日にはスバス・チャンドラ・ボース・アカデミー設立に関る。 |
| 1978年(昭和53年)から同アカデミー会長に就任。 |
| 1991年(平成3年)7月23日、逝去。 |