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プロフィール
- 片山敬済とは
- WGPデビュー以前
- WGP 1974年シーズン
- 1975年シーズン
- WGP 1976年シーズン
- 1977年シーズン
- 1978年シーズン
- WGP(NR500)
- 1982年シーズン
- 1983年シーズン
- 1985年シーズン
- ダカール・ラリー(ドライバー)
- プライベーターとワークス その時代背景
- 3気筒TZ350
- WGPの日本人
- テレビでのドキュメンタリー番組
- タンクのストッパー
- モーターホーム
- 片山の走り NRとの関わり
- 関連項目
片山敬済(かたやまたかずみ、1951年4月16日-)は、兵庫県生まれのモーターサイクル・ロードレースライダー。に日本出身者として初めてのロードレース世界選手権(WGP)チャンピオン獲得。WGP参戦当時の愛称は「 プリンス」。または名前から「zoomingcuts(ズーミングカッツ)」。韓国国籍。
WGPデビュー以前
| 16歳でバイクの免許を取得、ホンダCB450で走り始める。 |
| 18歳の頃にF1ドライバーを目指し、四輪車でジムカーナを始めるが、先輩から「4輪をやるなら2輪から入れ」との助言を受け、20歳のときにバイクレースを始める『片山敬済俺だけの2輪テクニック』(カバー-著者紹介)より。 |
| 兵庫県六甲山の街道レーサーから1971年、神戸木の実レーシングからロードレースデビュー。 |
| 当時のクラス分けのノービス、ジュニア、エキスパートジュニア、を全て一年でクリアし、1974年には当時国内最高のセニアクラスに昇格する。 |
WGP 1974年シーズン
| 参戦当初は好んで座禅をしたり、日の丸の鉢巻を装着してレースに挑むなど、その奇行と突然変異的な速さから「オリエンタルミステリー」と揶揄されることもあった。 |
| 片山は座禅を集中力を得る方法として行っていた『片山敬済俺だけの2輪テクニック』(p150)より。 |
| 当時のWGPでは、現在のWGPから見ると、各ライダーはかなり強引な走り方をしていた。 |
| コーナーでイン側に入ると、アウト側のライダーをどんどん外側に押し出すようなことが当たり前のように行われていた。 |
| アウト側のライダーはそのままではコースアウトしてしまうので、仕方なくスロットルを戻し、イン側のライダーの後方に下がることになる。 |
| 金谷秀夫もヤーノ・サーリネンとカウリングをぶつけ合いながら走り、そこにフィル・リードも加わり、三つ巴の戦いになるという状況がごく普通であった。 |
| 相手がスロットルを戻すまで完全に抑えるという意気込みで各GPライダーは走っていた。 |
| 根本健や河崎裕之もそのような走り方をしていた。 |
| 片山は富士スピードウェイで飛ばされたことがある『グランプリ・ライダー』(p77,p78)より。 |
| 次の表は片山の250ccクラスの成績である(インターナショナルレースも含む)『グランプリ・ライダー』(p76)より。 |
1975年シーズン
| 1975年は大半を国内レースで過ごす。 |
| この年、シーズン途中に米国モーターサイクリスト協会(AMA)のオンタリオ200マイルレースに参戦。 |
| 総合でケニー・ロバーツに次いで2位となる。 |
| 結果は、250ccクラスで2位、750ccクラスで4位であった『グランプリ・ライダー』(p88)より。 |
| 当初、片山はAMAのライセンスを取得して、ダートトラックレースやロードレースの全米選手権などに参戦するつもりであったが、AMAのライセンスが取得できなかった。 |
| オンタリオのレースはインターナショナルレースだったので、日本のライセンスでもエントリーすることができた。 |
| また、片山はアメリカの雰囲気が自分には合わないと感じていた。 |
| 片山にとって、アメリカの雰囲気はドライ過ぎ、日本の雰囲気はウェット過ぎ、半々ぐらいのヨーロッパの雰囲気が自分に合っていると感じた『グランプリ・ライダー』(p85,p86)より。 |
WGP 1976年シーズン
| 1975年のシーズンオフに石油ショックのあおりを受けてレース部門縮小を行ったヤマハから契約解除を申し渡される。 |
| この時点で片山はレースから足を洗うことも考えたというが、その直後に同じGPライダーのチャス・モーティマーからの誘いを受けて再びWGPに、今度はプライベーターとして参戦することを決意する。 |
| 今シーズンは、日本のガスライター会社であるサロメがスポンサーとなった。 |
| サロメは既にヨーロッパにおいて自転車レースのスポンサーになっていた。 |
| 片山は、1975年はヤマハの契約ライダーだったので年収は800万円を超えていたが、1976年はそのような収入はなく、サロメがスポンサーについてはいたがヨーロッパでの生活は苦しく、レース用のマシンも片山自身で購入しなければならなかった。 |
| インターナショナルレースで賞金を得ながら、今シーズンから国際モーターサイクリズム連盟(FIM)のもとで開催されるようになったフォーミュラ750(F750)とWGP250ccクラス、350ccクラスに参戦。 |
| また、マン島TTレースでは500ccクラスとプロダクション250ccクラス(RD250)に参戦し、今シーズンは約75戦のレースを走った。 |
| レースで良い結果を出していたので、スターティングマネーはトップクラスの金額になったのだが、1シーズンのレース活動にはそれでも十分ではなかった。 |
| 日本から呼び寄せた二人のメカニックも生活の酷さに耐えきれず、2-3ヶ月で日本に帰ってしまった。 |
| 結局、知らない人間も含めて8人ぐらいのヘルパーの助けを借りてレースを走ることになる。 |
| 今シーズンは最終戦のスペインGP以外は全レース走り、ランキングは250ccクラス2位、350ccクラス7位、500ccクラス20位、F750クラス11位であった『グランプリ・ライダー』(p91-p100)より。 |
| 第7戦から第12戦までの距離とタイムのデータは『ライダークラブ』第4号、1977年2月25日発行(p34,p35)より。 |
1977年シーズン
| 昨シーズン()は1シーズンでメカニックなどが8人も変わったので、片山は昨シーズン終了後に日本に帰ってからメカニックを探し始める。 |
| 目星を付けていた人物が今シーズン以降片山敬済のチーフメカニックとしてWGPを転戦することになる杉原真一である。 |
| 当時杉原は片山義美のマツダロータリーエンジンのチューニングを担当するチーフメカニックであったが、片山敬済が何度も頼み込み、WGPに一緒に来てもらえることになった『天駆ける』(p57,p58)より。 |
| その後、ヤマハモーターNVと契約した片山は、新開発の3気筒エンジンと従来の2気筒エンジンの2種類のTZ350をサーキットによって使い分け、見事日本人初となるWGP350ccクラスのチャンピオンとなる『サーキットの軌跡』(p142)、『Motocourse:50YearsofMotoGrandPrix』(p94)より。 |
| ただ、当時すでに日本へ帰化済みとの情報もある。 |
| 軍事政権下の韓国籍ではビザ取得が困難であるとされたため。 |
| 当時圧倒的に速かったカワサキKR350+コーク・バリントンを破ったのは、メーカーのオーダーを無視したコース特性を読みきった上でのマシンの使い分けが成せた業であり、この事が原因でチャンピオンを獲得しながらもヤマハから離れざるを得なかったとの情報もある。 |
| 片山はユーゴスラビアGPの前にベルギーで行われたインターナショナルレースで転倒して鎖骨を骨折してしまった。 |
| ユーゴスラビアGPの予選の日まで一週間もなかったが片山は手術を受け、スチールプレートとボルトで骨折した鎖骨を固定してユーゴスラビアGPに臨み、350ccで優勝しただけでなく、250ccでも2位になり、人々を驚かせた『サーキットの軌跡』(p142)より。 |
| 7月29日・30日、イマトラ(フィンランドGP)で行われた決勝レースでは3気筒TZ350を走らせて優勝し、最終戦を待たずに350ccクラスのチャンピオンが確定し、月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)の表紙を飾った『モト・ライダー』1977年10月号(p151,表紙)より。 |
| 3気筒TZ350は実質片山スペシャルで、その後まともに乗りこなせたレーサーは存在しない。 |
| まさに片山とTKwithsugiの名メカニック杉原氏のあくなき勝利への執念が生んだマシンが3気筒TZであり、チャンピオン獲得であったとして過言ではないだろう。 |
| チャンピオン獲得後のコメントでも「チャンピオンは取れると思っていた。 |
| 自分ほどチャンピオン取るために準備や努力をしている人間はいないし、取れなければおかしいとさえ思っていた」と語り(一部『Number』誌より抜粋)、当時の未熟な日本のモータースポーツ環境と片山の意思とのギャップが強く滲み出ている。 |
| 1970年代初頭にヤマハのワークスライダーであった本橋明泰は次のように語っている。 |
| しかし、片山の世界チャンピオンシップ獲得は日本ではほとんど知られておらず、シーズンのモータースポーツ記者クラブの年間クラブ賞では、片山は世界チャンピオンになったにもかかわらず選考から外れそうになった。 |
| しかし数人の記者が片山のことを知っていたので、そのような事態は避けられた『グランプリ・ライダー』(p110,p111)より。 |
| 当時はバイク雑誌でさえ片山を表紙にしたのは月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)ぐらいであった『モト・ライダー』1977年10月号「表紙」より。 |
| 当時、WGPを全戦を取材している日本人はフォトグラファーの木引繁雄しかおらず、木引も多額な自己負担をしながら取材をしている状態であった。 |
| 泉優二は片山のために記者会見を計画したが、マスコミ関係者を集めることに奔走した。 |
| 泉は通信社の知人に頼み、片山の世界チャンピオン獲得を配信してもらった『グランプリ・ライダー』(p223,p224)より。 |
| 泉は1978年に、ヨーロッパのF2に参戦していた星野一義から「片山さんは、どうやってヨーロッパで戦っているんですか?」と尋ねられたことがある。 |
| 星野はヨーロッパのドライバーたちの強引な走り方に戸惑っていたようである『グランプリ・ライダー』(p224,p225)より。 |
1978年シーズン
| 350ccクラスでの片山は、サン・カルロス(ベネズエラGP)とニュルブルクリンク(ドイツGP)で優勝して年間ポイントを77獲得し、年間ランキング2位となる。 |
| 同年のチャンピオンはカワサキのワークスマシンKR350に乗るコーク・バリントンで、6回優勝して年間ポイントを134獲得した『Motocourse:50YearsofMotoGrandPrix』(p197)より。 |
| ニュルブルクリンク(西ドイツGP)ではカワサキKR350を駆るコーク・バリントンと死闘を繰り広げ、最後の3周はコークとテールツーノーズでの接戦となり、フレームを折りながらも、トップでチェッカーを受ける。 |
| レース後、TZ350のタンクを外して点検するとフレームが折れていた『片山敬済俺だけの2輪テクニック』(p11)より。 |
| 「おまえの500はカメより遅い」(パット・ヘネン)『グランプリ・ライダー』(p121)より。 |
WGP(NR500)
| 1979年シーズンは、イギリスGP(シルバーストン)とフランスGP(ル・マン)のみ参戦するが、2レースともリタイアとなる。 |
1982年シーズン
| 第3戦フランス(ノガロ)が、片山も含めてほとんどのワークスライダーにボイコットされた『Motocourse:50YearsofMotoGrandPrix』(p113)より。 |
1985年シーズン
| 片山はNS500のフレームに、HRC純正のもののほかに、RS500用のニコ・バッカー製フレームも使用した。 |
| WGPの第1戦は3月下旬に南アフリカ共和国のキャラミ・サーキットで開催されたのだが、片山はこのレースには出場せず、片山のマネージャーのジョン・ドシォスの家でテレビ観戦していた。 |
| イタリアのイモラで行われたイモラ200マイルレースの第1ヒートでは、片山はエディ・ローソン、ランディ・マモラについで3位に入った。 |
| 第6戦ユーゴスラビアGP(リエカ)では、序盤戦でフレディ・スペンサーと4位争いをしていたが、高速コーナーでローサイドクラッシュをしてしまい、肋骨と首を痛めてしまった『サーキットの軌跡』(p185)より。 |
| 新型V4マシーンNSR500をはじめとするライバルに戦いを挑むも、のような速さを取り戻せず、第8戦のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)で8位入賞後、次のフランスGP(ルマン)の予選終了後に突如として引退声明を発表。 |
ダカール・ラリー(ドライバー)
| 1990年・1991年にはダカール・ラリーにも参戦し、1990年は三菱自動車のサポートを受けパジェロ改のPX33で出走し、総合25位で完走、1991年は日産・パルサーをベースとしたオリジナルマシンで出走するもののリタイアに終わっている。 |
プライベーターとワークス その時代背景
| 片山は、オランダのヤマハ現地法人(NV)と契約するに至ったが、その身分は、以降のミドルクラス、ソノートのクリスチャン・サロン、ベネズモトのカルロス・ラバードと比較してもワークスやセミワークスと呼ぶには余りにも脆弱な体制であり、ヤマハのレース年表にもあくまで「プライベーターとして最後の世界チャンピオン」と記されている。 |
| 250cc・350ccクラスだけ見ても、コーク・バリントンやアントン・マンクが片山のチャンピオン獲得後、ケン鈴木率いるカワサキワークス(KR250・KR350)で圧勝を繰り返す。 |
3気筒TZ350
| 節「1977年シーズン」にある「実質片山スペシャル」とは、高出力化を図ったピストンリードバルブエンジンゆえの宿命であり、余りにもピーキーなエンジン特性で他のヤマハ契約レーサーが乗りこなすことが困難であった為である。 |
WGPの日本人
| WGP全戦を取材するジャーナリストもフォトグラファーの木引繁雄ぐらいで、しかも彼は家はもたずにキャンピングカーで寝泊まりし、1泊500円ぐらいのキャンプ場で生活していた『グランプリ・ライダー』(p253,p254)より。 |
テレビでのドキュメンタリー番組
| フィンランドGP(イマトラ)では、昨シーズン、片山が世界チャンピオンを確定させた場所であり、この年のレースのパンフレットの表紙やポスターには片山の写真が使われていた『片山敬済俺だけの2輪テクニック』(p18)より。 |
タンクのストッパー
| 片山はNS500のタンクのシート側に瘤のようなものをガムテープで取り付けていた。 |
| コーナーでハングオフした時に太股をこの瘤に当ててストッパーとしていた『片山敬済の戦い-オランダGPの16ラップ』(p37)より。 |
モーターホーム
| 台所には流し台やレンジ、冷蔵庫、食品貯蔵庫などが設置されている。 |
| 台所の奥にはシャワールームとトイレ、クローゼットがある。 |
片山の走り NRとの関わり
| 77年にチャンピオンを決めたフィンランドのイマトラは、コース内に踏切イマトラの踏切は悪評が高く、危険な場所の例としてあげられている--『Motocourse:50YearsofMotoGrandPrix』(p102)より。 |
| フィンランド国鉄の特急は踏切の手前でバイクの走行時間帯が過ぎるのを待っていた--『グランプリを走りたい』(p154)より。 |
| TZ350での快走や、テストもままらない500ccクラスでのプライベート・スズキRGB500での上位入賞などを背景にすると、「片山の走り」とは、どんなバイクも速く的確に乗りこなせてしまう適応性が高いタイプ(同じようなタイプは平忠彦もコメントしているエディ・ローソン)。 |
| その過剰なまでの自信が、当時常識を逸脱したホンダNR4ストローク500ccのGPマシンでのチャレンジに向かわせたのだろうが、レーサーとして脂の乗り切った4年もの歳月を「無駄」に過ごした代償は余りにも大きかったと、以後のモータースポーツシーンで語られる場合が多い。 |
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1951年
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片山 敬済(かたやま たかずみ)は、兵庫県生... |
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1971年
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神戸木の実レーシングからロードレースデビュー |
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つながりの強いひと
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平忠彦
福島県南相馬市(旧原町市)出身の元オートバイ・ロードレースライダーである。 |
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泉優二
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