| 1946年(昭和21年)、現代劇『七つの顔』で「多羅尾伴内」を演じる。 |
| これはGHQの占領政策によって「剣戟映画」の製作本数が制限され、「剣戟」が出来なかったためであった。 |
| この苦難を「多羅尾伴内」シリーズや「金田一耕助」ものを当たり役とする現代ミステリ映画路線で切り抜け、新境地を開いてみせる。 |
| この「多羅尾伴内探偵シリーズ」の第1作『七つの顔』は、『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』と大映で製作、東映に移ったのちの1960年(昭和35年)の『七つの顔の男だぜ』まで、計11本製作される人気シリーズとなった。 |
| 「多羅尾伴内=藤村大造」は、「かつて和製ルパンと云われた義賊」という設定の変装の名人であり、「…あるときは片目の運転手、またあるときは老巡査…、…しかしてその実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」というクライマックスの決め台詞は一世を風靡した。 |
| ちなみに、千恵蔵の東京訛りのおかげで、このセリフの「使徒」を「人」と聞き違える人は多かった。 |
| 1947年(昭和22年)、東横映画で、横溝正史原作の「金田一耕助シリーズ」第1作『三本指の男』(原作は『本陣殺人事件』)に出演。 |
| 以後、『獄門島・前後編』等6本に主演した。 |
| 千恵蔵の金田一耕助の扮装は、原作と異なり背広にソフト帽というスマートなスタイルであった。 |
| これらの作品は戦後娯楽に飢えていた観客に受け入れられ、いずれもヒット作品となった。 |
| また千恵蔵はギャング・アクション映画でも大活躍した。 |
| 1948年(昭和23年)、東横映画で囮捜査官の活躍を描いた現代劇『にっぽんGメン』に主演、以後、1963年(昭和38年)の『ギャング忠臣蔵』等々、数々の現代アクション映画に出演、このジャンルでも旗手的存在となり、三船敏郎、鶴田浩二や石原裕次郎、小林旭等の現代アクション映画に引き継がれていく。 |
| 1951年(昭和26年)、東映の創立に参加し、東映京都で市川右太衛門とともに重役兼トップスターとして活躍を始める。 |
| 当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた。 |
| (右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれたという)。 |
| 1955年(昭和30年)、内田吐夢監督の戦後復帰第1作である『血槍富士』に主演。 |
| 当作は「ブルーリボン大衆賞」を受賞し、名作として名高い。 |
| 1957年(昭和32年)、『大菩薩峠』に主演、全3部作は翌年、翌々年に渡るシリーズとなる。 |
| 1960年(昭和35年)、『御存じいれずみ判官』に主演、遠山の金さん役は、戦後時代劇での当たり役となる。 |
| 同年の『花の吉原百人斬り』も名作に数えられる。 |
| 昭和30年代の東映時代劇では、これら「いれずみ判官」シリーズや「大菩薩峠」シリーズなどの代表作によって、まさに「日本映画黄金期の顔」としての活躍を見せた。 |
| 昭和30年代後半以降は、若手スターの中村錦之助や大川橋蔵に主役の座を譲って、次第に出演本数を減らすようになっていく。 |
| 1963年(昭和38年)、『十三人の刺客』で嵐寛寿郎と共演。 |
| 時代劇衰退期にあって東映の重役として、集団抗争劇を模索した時代劇であり、傑作の呼び声も高い。 |
| その後、主役に拘って映画から退いた市川右太衛門とは対照的に、東映任侠映画の脇役等もこなした。 |
| テレビでは単発ドラマ『落城』(田宮虎彦原作)やシリーズもの『軍兵衛目安箱』が代表作で、晩年はテレビシリーズの『大岡越前』(加藤剛主演)の父親役としても親しまれた。 |
| 1972年、晩年は、テレビドラマに、脇役で出演する事が多かったが、最後のテレビドラマの主役で出演したのが『世なおし奉行』。 |
| この番組で、戦前の同時代に活躍、競い合った間柄の剣劇スター阪東妻三郎の息子の田村正和と共演している。 |
| 時代劇俳優としては、スピードのある手数の混んだ殺陣は得意ではなかったが「型」の美しさは抜群であった。 |
| 戦前の『赤西蛎太』の原田甲斐の殺陣や『宮本武蔵・一乗寺決闘』の二刀流の殺陣。 |
| 戦後では『大菩薩峠』の盲目になった机龍之助の妖気ただよう殺陣が見事だった。 |
| 1983年(昭和58年)、腎不全のため死去。 |
| 東映では彼の長年に渡る多大なる貢献を讃えて「東映葬」を行った。 |