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プロフィール
牛邯 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 牛邯 (ぎゅう かん、生没年不詳)は、 中国 の 新 代から 後漢 時代初期にかけての武将。字は 孺卿 。 涼州 隴西郡狄道県の人。 目次 1 事跡 2 注 3 参考文献 4 関連記事 事跡 姓名 牛邯 読み・ピンイン ぎゅうかん〔Niú Hán〕 時代 新 代 - 後漢 時代 生没年 〔不詳〕 字・別号 孺卿(字) 本貫・出身地等 涼州 隴西郡狄道県 職官 太中大夫 〔後漢〕→護羌校尉〔後漢〕 爵位・号等 - 陣営・所属等 隗囂 → 公孫述 → 光武帝 家族・一族 〔不詳〕 新末後漢初 の群雄の1人で隴右 [1] に勢力を張った 隗囂 の部下。勇敢にして力量と才気を有し、牛邯自身も、かつては辺境に割拠したこ ... もっと見る
牛邯 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 牛邯 (ぎゅう かん、生没年不詳)は、 中国 の 新 代から 後漢 時代初期にかけての武将。字は 孺卿 。 涼州 隴西郡狄道県の人。 目次 1 事跡 2 注 3 参考文献 4 関連記事 事跡 姓名 牛邯 読み・ピンイン ぎゅうかん〔Niú Hán〕 時代 新 代 - 後漢 時代 生没年 〔不詳〕 字・別号 孺卿(字) 本貫・出身地等 涼州 隴西郡狄道県 職官 太中大夫 〔後漢〕→護羌校尉〔後漢〕 爵位・号等 - 陣営・所属等 隗囂 → 公孫述 → 光武帝 家族・一族 〔不詳〕 新末後漢初 の群雄の1人で隴右 [1] に勢力を張った 隗囂 の部下。勇敢にして力量と才気を有し、牛邯自身も、かつては辺境に割拠したこともあった。 建武 6年( 30年 )、漢の 来歙 が使者として隗囂を訪れ、蜀(成家)の 公孫述 討伐を要請したが、隗囂はこれを拒否した。隗囂は、この際に来歙が自分を刺そうとしたことから激怒し、牛邯に命じて来歙を包囲させようとしたが、腹心の 王遵 の諫言により牛邯の派兵は取りやめている。 建武8年( 32年 )春、隗囂と 光武帝 の戦いが本格的に始まり、来歙が略陽(天水郡)を急襲してこれを陥落させる。牛邯は隗囂の命で瓦亭(安定郡烏枝県)を守備して他の漢軍の進攻に備え、隗囂は自ら略陽を包囲攻撃した。しかし、同年秋になっても隗囂は略陽を奪還できず、光武帝の親征を受けて敗走した。 同年、かつての同僚にして旧友の王遵が、牛邯に手紙を送って漢への投降を促した。牛邯は手紙を受け取ってから10数日思案したが、遂に漢への投降を決心し、部下に謝してから 洛陽 に至った。光武帝は牛邯を 太中大夫 に取り立てた。この牛邯の投降をきっかけに、隗囂に所属していた13人の大将、16県、10数万の兵士が続々と漢に降り、隗囂軍は大幅にその勢力を削り取られてしまった。 建武9年( 33年 )、関都尉が廃止され、護羌校尉が復活した。この時、 大司徒 司直 杜林 と太中大夫 馬援 が、牛邯を護羌校尉に推薦し、光武帝もこれを容れ、符節を与えて任命した。牛邯は令居(隴西郡)に駐屯し、来歙と共に、隗囂の遺児 隗純 の軍を平定している。なお、護羌校尉の地位は、牛邯没後には一旦廃止されたという。 注 ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。 参考文献 『 後漢書 』本紀1光武帝紀 同列伝3隗囂伝 同列伝5来歙伝 同列伝77西羌伝 関連記事 新末後漢初 カテゴリ: 漢代の人物 戻る
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