| のちに三菱重工業社長として采配を振り牧田天皇と呼ばれた牧田與一郎の6人きょうだいの末子(4男)として静岡市に生まれる。 |
| 1950年、東京都新宿区諏訪町(現在の高田馬場)の社宅に移り住み、1959年まで住み続ける。 |
| 少年時代は昆虫好きの理科少年だった。 |
| のち家族と共に世田谷区下馬を経て港区高輪へ転居。 |
| 1959年4月、新宿区立戸塚第二小学校を経て、三菱財閥系列の成蹊中学校に入学。 |
| テニス部と生物部を経て登山部に入部。 |
| 成蹊高等学校で反抗的な態度を続けたため、成蹊高等学校卒業生中ただひとり成蹊大学への推薦を拒否され、1965年、一般入試で成蹊大学政治経済学部と文学部に合格し、文学部文化学科に進む。 |
| 入学と同時に三派系全学連の社会主義学生同盟(社学同)に参加『フォーカス』1982年6月4日号「『牧田吉明』爆弾証言までの軌跡──"御曹司"にして"テロリスト"の素顔」。 |
| 成蹊大学自治会の執行委員として、文学部長金子武蔵と衝突。 |
| 1965年の暮には国鉄運賃値上げ反対集会で機動隊員に暴行し、初めて逮捕される。 |
| 家裁送致を経て2泊3日で釈放。 |
| 風月堂、どん底、ジャズビレに入り浸り、中上健次と交際。 |
| 1966年、成蹊高校で2級下だった演劇部の娘に失恋、大学に退学届けを送りつけて四国に遍路の旅をするも、退学届けは不受理になり、その代わりに無届ビラ、立て看、集会、デモ、教師への暴言や唾棄といった学則違反ゆえに無期停学処分を受ける(1966年3月)。 |
| このため処分撤回を要求して大学側と闘争、「大学は隠居学者を養うところじゃない」『週刊新潮』1968年7月20日「三菱重工副社長の意外な御曹司:財界エリートと新宿フーテンエリート」。 |
| などの挑発的なアジビラを撒いて金子一派を罵倒し、1967年5月に除籍処分を受けた。 |
| これに対し、犬用の鎖を自分の首に巻き、それを大学構内の水道栓に結びつけて「処分粉砕」のハンストを17日間敢行し、1967年6月には『週刊バイタリーMATE』創刊号でカバーボーイとして取り上げられるなど、週刊誌の取材を受ける。 |
| 後には除籍処分撤回を求めて成蹊大学を提訴し、法廷闘争を展開した。 |
| 同じ頃、アナーキスト組織背叛社に参加し、フーテン生活を送る。 |
| 1968年には、新宿駅西口広場にて「爆弾」と大書した張り子を背中に担ぎ、裸でハプニングをしていたこともある。 |
| 同年6月29日、新宿でフーテンの決起集会を企画し、カンパを募っておきながらポスターと写真の売り上げを持ったまま雲隠れしたとみなされ騒ぎになったのもこの頃のことである(六・二九事件)。 |
| 牧田はこの事件で首謀者の一人と見なされたが、当人はこれを否定している。 |
| また、フーテン仲間と東大の本郷キャンパスに押しかけ、東大元総長・浜尾新の銅像にペンキを塗ったこともある。 |
| この時期の牧田を2年近くにわたって撮影し続けたカメラマンの福島菊次郎は「生真面目で実に純粋だった。 |
| すれていないボンボンだから、調子のいい奴にずいぶんたかられてもいましたねえ……」と語っている。 |
| 1968年2月24日の金嬉老逮捕に際しては、新宿駅西口に新聞紙で大きなダイナマイトのオブジェを作り、それに自らの身体を縛りつけ、テープレコーダーで金嬉老の声を流すというパフォーマンスを行う。 |
| 同年3月4日、新宿の書店で本を万引きして逮捕され、「本が欲しかったのではなく、警察官の調書の書き方の中に彼らの意識構造を発見するため」と動機を語った(のち不起訴となる)。 |
| 同年4月、「大学は除籍処分を撤回、牧田は自主退学」との形で成蹊大学と和解が成立。 |
| 同年5月18日、日本テレビの第1回「木島則夫ハプニングショー」にユニットプロ(牧田はここでサイケ調のCMなどの製作を手伝っていた)の一員として出演、木島を新宿コマ劇場前の噴水に投げ込む計画を立てるも未遂に終わる。 |
| 同年10月6日、背叛社火薬暴発事件が発生。 |
| 友人が指名手配されたため、牧田も東京を後にして約1年間を関西で放浪。 |
| 京都の左翼サロン「白樺」に出入りし、京大急進派グループの滝田修や高瀬泰治や田辺繁治と知り合う『週刊新潮』1982年6月10日号「『同志よ、卑怯だ』と告発するテロリスト牧田吉明の『生けるしるし』」。 |
| 同じ頃、連続射殺魔事件の重要容疑者として捜査一課殺人係の訪問を受けるも、真犯人の永山則夫の逮捕により容疑が晴れる。 |
| 1969年には京都の立命館大学に乗り込んで民青と闘争を展開。 |
| ブントや中核派や全共闘の裏切りに遭って民青から反撃され、田辺繁治と共にリンチを受けた挙句に逮捕されたが、べ平連を装って釈放された。 |
| 翌日帰郷し、慈恵医大病院に20日間入院。 |
| 1969年12月、「転向祝い」と称して父親関係の会社から資金を集め『フォーカス』1991年12月20日・27日号「『ピース缶爆弾』対『小樽市役所』──ブドウ園を守るために戦う元過激派『牧田吉明氏』」東京渋谷にライブスペース「ステーション'70」を設立、社長を務め、無名時代の三上寛や阿部薫たちに活動の場を提供したが経営に失敗。 |
| その後、父親のつてで三菱グループのPR誌の製作を請負う広告会社を設立し社長となったが、1974年9月、大麻所持ならびに吸引で逮捕、108日間拘留される。 |
| この間、同年10月、京都地方公安調査局爆破事件に絡む爆発物取締罰則違反でも逮捕され、懲役1年10月、執行猶予3年の有罪判決を受けて当時牧田の弁護人をつとめた佐々木哲蔵によると、このとき爆発物取締罰則違反に問われた行為とは、ピース缶爆弾を所持していた牧田がそれを捨てさせる目的で別の青年に渡したというものだったという(『週刊新潮』1982年6月10日号「『同志よ、卑怯だ』と告発するテロリスト牧田吉明の『生けるしるし』」)。 |
| 1975年に会社は解散となる。 |
| 1975年3月、2歳下の女性活動家と結婚して長野県北安曇郡小谷村千国蕨に転居し、父親の遺産で会員制の民宿「ぐゎらん洞」を経営していたが1979年暮に離婚。 |
| その後しばらくしてから山小屋の経営を他人に委ねて東京に移住し、荻窪で自然食を販売。 |
| 1982年、生協で働いていた女性と再婚し、「ぐゎらん洞」に復帰。 |
| 1985年『週刊新潮』2008年5月1日・8日号「『ピース缶爆弾男』牧田吉明の『チベット暴動』予言」、「ぐゎらん洞」を売却して小樽郊外の原野を坪1000円で買い取り、1ヘクタールのブドウ園を開き、「山猫農場」を名乗って葡萄農家や養鶏業を営み、自家製葡萄で作ったワインを1990年から「山猫ワイン」のオリジナルブランドで販売していた綱島理友『ぼくらは愉快犯―Who'sAfraidofBattlefields?』(双葉社、1994年)p.185。 |
| このころ、大繁殖したネズミにより自らの畑のブドウが損害を受けたのは畑付近の小樽市のゴミ処理場が原因であるとし、1991年11月から12月にかけ、小樽市の廃棄物焼却場建設とゴルフ場誘致に抗議して小樽市役所の玄関前にライトバンを停め、ハンストを行う『噂の眞相』1992年3月号牧田吉明「汚樽市長・賊吏新谷昌明の暴政に抗する"わが闘争"」『フォーカス』1991年12月20日・27日号「『ピース缶爆弾』対『小樽市役所』──ブドウ園を守るために戦う元過激派『牧田吉明氏』」。 |
| 翌1992年1月6日、小樽市のゴミ行政を批判して同市の廃棄物処理場の入口の市道にトラックを停めて道路を封鎖し、往来妨害の現行犯で逮捕された『讀賣新聞』1992年1月6日夕刊「小樽ぶどう農家、ごみ搬入阻止」。 |
| 小樽での事業に失敗して離婚した後、札幌で飲み屋を経営したがやはり失敗、車上生活を経て大本教に入信し、京都に移住したこともある。 |
| 1980年代以降は新右翼に接近。 |
| 野村秋介との交友も知られており、阿部勉や牛嶋徳太朗、鈴木邦男とも交流があった。 |
| 晩年は岐阜県白川郷付近の御母衣ダムのほとりに丸太小屋を借りて自炊生活を送っていた。 |
| このころ「1カ月の生活費は7万円、冬場は灯油代がかかるので10万円です」「今年(2008年)3月まで親族から仕送りがあったのですが、ネットに私のブログを載せて、カンパを募ろうと考えています」とも発言している。 |
| 2009年7月から長野県の白樺湖畔の観光ホテルに勤務し、ホテルの寮に住み、月給手取り6万円程度で |
| かねてより糖尿病と心臓病を患い、2010年5月15日に心筋梗塞で緊急入院したが5月22日に脱走して帰宅 |
| 2010年6月1日、自宅で病気により亡くなっているのが発見された。 |
| 本人のブログの最終更新日は2010年5月27日だが、成蹊会の訃報では牧田の死亡日を5月29日と伝えている |