| 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。 |
| 慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。 |
| 慶応2年(1867年)、20歳の折に京都に出て、玉松操や六人部是香に師事して国書を修める。 |
| 明治2年(1869年)に上京。 |
| 明治3年(1870年)5月、平田銕胤(明治13年没、年82)門に入り国学を、また神祇官職員の東條琴臺(明治11年没、年84)に師事して漢学を修める。 |
| 同年から神祇官の宣教史生の職を得た。 |
| 明治4年(1871年)24歳からは洋学も修める。 |
| 明治5年(1872年)から教部省に出仕する(中録十等)。 |
| 職務のかたわら辞書編纂を企画した。 |
| また「本邦語源考」「事物名義考」の研究発表もしている。 |
| 高見の言語に対する興味はこの頃からあった。 |
| 明治7年(1874年)27歳の時、杵築在の岩田なつ子と結婚する。 |
| 国文法研究には英文法が必要と考え、明治8年(1875年)からは近藤真琴のもとで英語を学ぶ。 |
| 教部省が廃止されたので、内務省に移る。 |
| 明治12年(1879年)、高見33歳の折に内務省より月山神社宮司兼羽黒山神社・湯殿山神社宮司に任ぜられ、学習院や女子師範学校の教授をも兼務している。 |
| 國學院大學の創立委員の一人として尽力した。 |
| 明治16年1883年)1月2日父・高世没する。 |
| 大分県気付きから帝国大学文科大学御用掛取扱(准判任官)に任ぜられる。 |
| 明治19年(1886年)3月から帝国大学教授に任ぜられる。 |
| さらに、東京師範学校や文部省参事官を兼任する。 |
| 明治20年(1887年)の1月7日、宮中御講書始めの講師を命じられる。 |
| 夏、避暑先の神奈川県横浜市金沢区富岡で、宮内大臣土方久元や御歌所長高崎正風、警視総監三島通庸などの高官に会い、ある高官(松方正義ともいわれる)によって外交官に推されそうになったが謝絶した。 |
| その代わりに国語辞典「日本大辞林」編纂事業への資金援助を約束される。 |
| 当時、小学校教師や警察官の月給が6〜7円だった時代において、原稿料1枚10円物集高量『百歳は折り返し点』日本出版社、1979年、152頁という超巨額の援助だった。 |
| このほか、門人下田歌子に乞われて、華族女学校の副読本を執筆したこともある。 |
| 明治23年(1890年)には学習院大学部(旧制)の教授も兼任する。 |
| 明治28年(1895年)49歳の高見は勲六等瑞宝章を賜る。 |
| 明治32年(1899年)3月、文学博士となる。 |
| 同年4月、東京帝国大学文科大学の井上哲次郎の勧告で大学を退官。 |
| 背景には、門人上田万年との文学論争をきっかけとする、上田とその弟子たちによる追い出し工作があった。 |
| 高見はこのことを深く恨み、息子高量に向かって「上田の家は小石川伝通院にあるが、決してその前を通ってはならぬ」と命じていた。 |
| 辞職直後は、乱れた心を鎮めるため、自宅で習字ばかりしていたとも伝えられている。 |
| 以後は私財を注ぎ込んで在野の学者として研究に没頭し、貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した。 |
| 「広文庫」全20巻の内の第1巻を大正5年(1916年)に広文庫刊行会より刊行、大正7年(1918年)には全巻の刊行を終る。 |
| 1916年~1917年に全3巻の「群書索引」を刊行した。 |
| 昭和2年(1927年)2月、81歳の折には「皇學叢書」全12巻を刊行した。 |
| 商業ベースの出版ではなかったが為、膨大な借財を負った。 |
| 昭和3年(1928年)6月23日、大分県速見郡杵築町寺町の自宅にて死去した。 |
| 長男物集高量は国文学者。 |
| 娘の大倉燁子(てるこ)と物集和子は共に小説家。 |
| 長男物集高量は自著のエッセイの中で「東大教授法学博士・穂積陳重の一言が、父の人生を狂わせてしまった。 |
| やはりあの言葉は父にとっては悪魔の誘惑だったのですよ。 |
| この誘いがなければ、父は晩年盲目になる事も田畑や家屋、全財産すべてを失うこともなかったはずなのです」と苦々しく回想述懐した。 |
| 当時陳重は、自著「隠居論」なる論文を書こうと構想して模索していたが、中々思うような参考文献もなく、それとなく会食の折に高見に相談を持ちかけた。 |
| 読書家で蔵書家でもある知的好奇心旺盛な高見は、早速数日間の内に、依頼された文献資料をリストアップして必要事項を書き込み、それを博士のもとに持参した。 |
| 目を通した博士は大いに感心し、「私が一年かかっても見つけきらなかった文献類が、貴方に頼むとほんの僅かな時間で数十冊にものぼる貴重な参考書物を紹介してくれました。 |
| もしこのような書物が身近にあれば、研究者や学者にとってどれだけ助かるか。 |
| 貴君是非やってみてはくれないか」と、徐に懇願依頼した。 |
| つまり一陣の風が吹いたわけでありますが、これ以後、何かに取り憑かれたかのように高見は十数万冊の書物を自費で購入することになった。 |
| この書籍購入費が多大な負担となり、ついには大きな邸宅も広大な敷地も全てを借金の抵当にとられてしまい、晩年には経済観念の欠落した学者である我が身の愚かさを、よほど身に沁みて痛感なされたのか、「以後物集家には学者は出すまじ」と遺言して、不遇の内に逝去されたとのことである。 |
| 物集博士は財産や世俗的な物を生前にすべて失ない、また経済的にも大変な辛苦辛酸を具に体験なされましたが、学者としては一流で、日本大辞林を初め廣文庫や皇学叢書、群書索引などを編纂なされ、数々の業績をこの国に遺されました。 |
| 其の研究の為に蒐集された夥しい書物群は、我が国の伝統であり、日本の文化としての古典籍類がほとんどでありまして、後学の歴史考証や有職故実を研究する学者達のみならず在野の研究者や一般読者達にも多大なる知的影響を及ぼし、今日に到っております。 |
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| 郷土の先覚者シリーズ 第7巻 米田貞一他。 |