| そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。 |
| しかし、皇帝は皇后を寵愛しており、また、外戚である大将軍の何進に遠慮したため、結局、劉協を後継者に指名できなかった。 |
| 中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると、長子である皇子の劉弁が即位した霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。 |
| 蹇碩は董太后や董重とともに、大将軍の何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。 |
| 劉協は渤海王に封じられた劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにもかかわらず、父の死を悼み悲しんだ。 |
| その様子を見た大臣たちはみな心を痛めたという。 |
| 同年秋7月、陳留王に移封される。 |
| 当時、朝廷では外戚の大将軍何進の派閥と中常侍ら宦官の勢力が対立していたが、。 |
| 8月、何進が嘉徳殿当時、雒陽城の南宮にあった御殿の一つ。 |
| の前で中常侍に暗殺されると、司隷校尉の袁紹らが挙兵したため、宮中は混乱に陥った。 |
| 数日で宦官の勢力は敗れるが、その際に陳留王は、少帝とともに中常持の張譲、段珪によって都雒陽(洛陽)から連れ去られた虎賁中郎将の袁術が雒陽城の南宮を攻めると、張譲らは中黄門に命じて宮殿の門を閉ざした。 |
| そこで、袁術が青琑門(嘉徳殿の門)に火を放つと、張譲らは長楽宮に参内し、何太后と少帝と陳留王を連れて複道を通り、北宮の崇徳殿へ移った。 |
| しかし、司隷校尉の袁紹の兵が北宮に攻め入ったため、少帝と陳留王をまた連れ出し、わずかな供回りと雒陽の北門(穀門)から逃れた。 |
| 一行は夜に黄河のほとりの小平津に辿り着いたが、そこで尚書の盧植らが中常侍を討ち、皇帝を保護した。 |
| しかし、間もなく尚書の盧植らに保護され、帰還することができた少帝と陳留王は、蛍の微かな光を頼りに夜道を数里歩いた後、ようやく民家で手に入れた露車(幌などの覆いがない車)に乗ることができたという。 |
| 北芒山の北まで来ると、少帝は馬に乗り換え、陳留王も河南中部掾の閔貢が御す馬に乗って帰還した。 |
| その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都に入った董卓雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に皇帝を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。 |
| 少帝が董卓の兵に怯えてすすり泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然と答えたという。 |
| このとき、少帝の年齢は17歳、陳留王は9歳だった。 |
| 野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族であることから、皇帝に立てようと考えたという。 |
| によって握られ、9月、少帝が廃位され弘農王となると、代わって陳留王が皇帝に擁立された間もなく弘農王は董卓に殺されるが、『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りをはばからず嘆き悲しんだという。 |
| 初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝は長安へ移った遷都が実施されたのは、2月17日のこと。 |
| 献帝が長安へ着いたのは3月5日だった。 |
| このとき、洛陽の民も董卓によって強制的に移住させられた。 |
| そこで董卓は腹心の呂布に暗殺される。 |
| その後、司徒の王允が朝廷の政治を取り仕切った。 |
| ところが、一月余りで長安は董卓の残党の攻撃を受けて陥落しそのときの戦闘で官吏や民の死者は数万人にのぼったという。 |
| また、長安周辺の民は李傕らの略奪と破壊に遭い、数年の間飢餓に苦しんだという。 |
| 、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。 |
| この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯は各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥っていた。 |
| 興平元年(194年)春正月、献帝は元服した。 |
| 2月、亡き生母の王氏に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬した。 |
| 翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿は焼き払われた。 |
| 郭汜が李傕を攻めた際は、おびただしい数の矢が射込まれ、皇帝のそば近くにまで届いたという。 |
| 建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁されて洛陽へ帰還した。 |
| 8月、曹操の庇護を受けて許に遷都した。 |
| 曹操は建安5年(200年)の官渡の戦いで袁紹を破り華北を平定した。 |
| 建安13年(208年)、曹操は荊州を平定したが、赤壁の戦いで孫権と劉備に破れ、揚州の平定はならず、荊州も失陥した。 |
| 曹操は孫権や劉備と争う一方で、建安18年213年には魏公となり、建安21年(216年)には魏王となった。 |
| こうして後漢の内実は曹氏の魏にとって代わられていく。 |
| この間、建安19年(214年)には献帝の皇后の伏氏が殺害され、献帝は曹操の娘を皇后とすることを余儀なくされた。 |
| 建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位した。 |
| 曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で同年のうちに、献帝は皇帝の位を譲ることを余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。 |
| このとき用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世、王朝交代が行われるときの手本となった献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは堯が舜に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。 |
| 皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還することを幾度も拒み続けたが「とはいえ、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しくなじり「天に祝福されないのか」と嘆き玉璽を放り投げ涙を流した。 |
| その場にいた者はみな顔を上げられなかったといわれるなお『三国志演義』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。 |
| 献帝は皇帝となった曹丕(魏の文帝)により山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても「朕」という皇帝だけが使える一人称を使うことを許されるなど、様々な面で厚遇は受けた。 |
| また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、みな降格して列侯となった。 |
| 益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であると称し漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、劉備は漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。 |
| また、揚州を中心に勢力を保った孫権も呉王となり、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。 |
| その後の献帝は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した5ヶ月後には五丈原の戦いで蜀(蜀漢)の丞相諸葛亮が戦没している。 |
| 魏は孝献皇帝と諡した。 |