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プロフィール
- 玄奘三蔵とは
- 仏教への帰依
- 西域の旅
- 帰還後
- 訳経
- 宗派
- 法相宗
- 日本の法相宗
- 玄奘の遺骨
- 著作・伝記
- 大唐西域記
- 大慈恩寺三蔵法師伝
- 続高僧伝
- 西遊記
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602年-664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘。尊称に 三蔵法師、 玄奘三蔵などがある。
仏教への帰依
| 陳褘は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い緱氏故三蔵玄奘法師行状『続高僧伝』卷第四『大慈恩寺三蔵法師伝』、現在の河南省偃師市緱氏鎮で陳慧(または陳恵)の4男として生まれた。 |
| 母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。 |
| 字は玄奘で、戒名はこれを諱とした。 |
| 生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。 |
| 前嶋信次『玄奘三蔵 史実西遊記』 岩波新書、1952年。 |
| 陳氏は、後漢の陳寔を祖にもつ陳留(現在の河南省開封市)出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。 |
| 特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡の太守になっている。 |
| その後、祖父である陳康は北斉に仕え、緱氏へと移住した。 |
| 8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、''曾子避席''のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。 |
| この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった。 |
| 10歳で父を亡くした陳褘は、次兄の長捷(俗名は陳素)が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。 |
| ほどなくして度僧の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。 |
| これを知った隋の大理卿である鄭善果は、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。 |
| これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、陳褘は度牒を得て出家した。 |
| こうして兄とともに浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。 |
| 武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄とともに長安の荘厳寺へと移った。 |
| しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。 |
| かつて煬帝が洛陽に集めた名僧たちは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。 |
| また益州各地に先人たちを尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想への見識を深めた。 |
| 武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。 |
| ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。 |
| その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。 |
西域の旅
| 玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、唐王朝に出国の許可を求めた。 |
| しかし、許されなかったため、国禁を犯して出国、河西回廊を経て高昌に至った。 |
| 高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。 |
| 玄奘は西域の商人らに混じって天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、ガンジス川を越えてインドに至った。 |
| ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。 |
| ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。 |
| こうして学問を修めた後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。 |
帰還後
| 帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。 |
| 太宗の勅命により、玄奘は、貞観19年(645年)2月6日に弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。 |
| この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。 |
| さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。 |
| その後、玉華宮に居を移したが、翻訳はそのまま続けた。 |
| 麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は玉華宮で寂した。 |
訳経
| 玄奘の翻訳は『大般若経』600巻を含む76部1,347巻に及んだ。 |
| その際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。 |
| 『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩はクマーラジーバによる旧訳では観音経の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。 |
| 訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリットの原語Avalokiteśvara「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難している。 |
| 一説では唐の太宗皇帝の姓名が「李世民」であったため、「世」の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。 |
| 一方、玄奘にはこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、あたかもクマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。 |
宗派
| 玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではないが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、日中の仏教界に大きな影響を与えた。 |
法相宗
| 法相宗の実質的な創始者は玄奘の弟子の基である。 |
| しかし、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師である戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としている。 |
日本の法相宗
| 遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受けた。 |
| 道昭の弟子とされるのが、行基である。 |
玄奘の遺骨
| 日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。 |
| それは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。 |
| 石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。 |
| 石棺内に納められていたのは、頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。 |
| この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。 |
| 中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。 |
| その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。 |
| この時、日本で奉安されたのが、現さいたま市(旧岩槻市)の慈恩寺である。 |
| 後に奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」に一部分骨された。 |
著作・伝記
| 玄奘自身の著作である『大唐西域記』により、彼の旅程の詳細を知ることができる。 |
| 玄奘の伝記は、仏教関係の様々な書物に記載されているが、唐代のものとしては、『大慈恩寺三蔵法師伝』と『続高僧伝』がある。 |
大唐西域記
| 玄奘は、その17年間にわたる旅の記録を『大唐西域記』として残しており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える貴重な歴史資料となっている。 |
大慈恩寺三蔵法師伝
| 慧立と彦悰により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4年3月15日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成した。 |
| 略称は『慈恩伝』。 |
| 大正新脩大蔵経では、『大唐大慈恩寺三藏法師傳』としてNo.2053に収録されている(T50_220c)。 |
| また、興福寺と法隆寺の所蔵する院政期の写本は共に国の重要文化財である。 |
続高僧伝
| 『続高僧伝』は、道宣の編纂した中国僧の伝記集。 |
| ただし、『続高僧伝』が完成した645年は、玄奘の帰国直後であるのに対し、玄奘の項には、664年の死までが記されている。 |
西遊記
| 元代に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえたうえで書かれており、玄奘は三蔵の名で登場している。 |
| 三蔵法師とは経、律、論に精通している僧侶に対して皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。 |
| 例えば鳩摩羅什、真諦、不空金剛、霊仙なども「三蔵法師」の敬称を得ている。 |
| だが今日では、特筆すべき功績を残した僧侶として「三蔵法師」といえば、玄奘のことを指すことが多くなった。 |
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