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王修
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三国時代
王脩
魏
後漢
204年
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プロフィール
王修とは
青州での治績
袁譚への忠義と魏での活躍
物語中の王修
参考文献
王修(おうしゅう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家。字は叔治。青州北海郡営陵県の人。子に王儀・
王忠
。
青州での治績
→青州治中〔
袁譚
〕→即墨侯国令〔
袁紹
〕。
→青州別駕〔
袁譚
〕。
→司空掾兼行司金中郎将〔曹操〕。
→魏郡太守〔曹操〕。
→大司農兼郎中令〔曹操〕。
初平年間に北海太守孔融に仕え、高密侯国の令として実績を示す。
このとき、孝廉に推挙されたが、都に上ることは無かった。
次いで、王修は膠東侯国の令に任じられた。
当時、有力な豪族の公沙盧は防備を固め租税を払わなかった。
王修はたった数騎の共を連れ、まっすぐ公沙盧の家の門に入り、公沙盧兄弟を斬った。
王修は孔融が困難に直面してる時は必ず駆けつけ、助けたという。
建安元年(196年)頃、孔融は
袁譚
に青州を追われてしまう。
一方の王修自身は、青州刺史となった
袁譚
にも招聘され、治中従事に任命された。
しかし、青州別駕(州内第二位の地位)の劉献が王修を嫉視、排斥したことなどもあって、
袁譚
はなかなか王修を使いこなせなかったとされる。
その後、王修は
袁譚
の父
袁紹
に直々に召し寄せられ、即墨侯国の令に就任した。
これを経て再び
袁譚
の下に戻ると、王修は青州別駕に任命されている。
これ以後、
袁譚
は王修を腹心として頼みにしたという。
袁譚への忠義と魏での活躍
建安8年(203年)、
袁譚
と
袁尚
が兄弟で争い、
袁譚
が敗れて南皮へ退却する。
このとき王修は、青州軍を率いて救援に駆けつけ、
袁譚
に喜ばれる。
さらに王修は、
袁尚
と兄弟で争うことをやめ、また、
侫臣
(
袁尚
に先制攻撃するよう進言した
郭図
・
辛評
のことか)を斬るよう進言している。
しかし、この諫言については、
袁譚
は聞き入れなかった。
その後、
袁譚
は
郭図
の助言に従って曹操に一時降伏し、隙を衝いて勢力を拡大したが、これが原因で再び曹操と対立してしまう。
建安10年(205年)、
袁譚
が曹操によって南皮に攻められると、王修は再び救援に向かったが、間に合わずに
袁譚
は滅ぼされた。
南皮に到着した王修は、獄門にかけられていた
袁譚
の首級の下で罪を恐れず哭した。
さらに
袁譚
の遺体を弔いたいと曹操に嘆願し、許されて懇ろに埋葬した。
曹操は、王修の清廉忠直ぶりを賞賛して礼をもって臣下に迎える。
以後、王修は司空掾兼行司金中郎将、魏郡太守を歴任した。
このとき、賞罰を厳格に定めた法を制定し、善政を行なったため、民衆から賞賛されている。
曹操が魏王となった建安21年(216年)に、大司農兼郎中令に昇進し、在職中に死去した。
没年は不明だが、曹丕が
文帝
として即位した黄初元年(220年)までには、すでに亡くなっていたことが明らかである。
王修は
王基
や高柔が若いころに彼らの才能を見抜き、人を見る目が優れていると賞賛された。
王儀の子で王修の孫の王裒は二十四孝で著名な人物である。
物語中の王修
小説『三国志演義』でも登場する。
史実通り、
袁尚
と和睦するよう
袁譚
に諫言したが、その怒りを買って退けられている。
袁譚
の首級が獄門にかけられた場面でも、やはり史実どおりに
袁譚
の遺骸を弔い、曹操から礼遇される。
参考文献
『三国志』魏書11王修伝魏書6
袁紹
伝魏書2
文帝
紀。
『後漢書』列伝64下付・
袁譚
伝。
『三国演義』。
王修 - Wikipedia
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