| 馬謖およびその配下の武将はいずれも軍令違反で処罰されたが、王平だけはこの時の功績により、参軍・討寇将軍の地位を与えられている。 |
| 231年、諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は別働隊を率いて山の南を守備した。 |
| この時、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張郃軍を撃退している『漢晋春秋』によれば、諸葛亮は魏延・呉班・高翔を派遣して、司馬懿を撃退し、敵の首級を三千、鎧を五千、三千百の弩を獲得した。 |
| 234年、諸葛亮が五丈原で魏軍と対陣中に没すると、長史の楊儀は諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。 |
| ところが、かねてから楊儀と不仲であった魏延が撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。 |
| この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならないうちに、お前たちは何でこんな事をしようとするのか!」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。 |
| 魏延の兵士たちはこれを聴くと、魏延を見捨てて逃げ去ったため、楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。 |
| 陳寿はこの時の戦いを、「一戦して(魏延を)破り、これを平らげたのは、王平の功績である」と称賛している。 |
| 撤退後は後典軍・安漢将軍に昇進し、呉懿の副将として漢中に駐屯し、漢中太守を兼任した。 |
| 237年に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され、安漢侯に封じられる。 |
| その後も、前監軍・鎮北大将軍に昇進し、漢中の軍事・行政を一任された。 |
| 244年、魏の大将軍曹爽が、10万の大軍を率いて蜀に侵攻してきたが、王平は興勢山に出撃してこれを迎え撃ち、費禕の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ、撃退することに成功した。 |
| このころ鄧芝と馬忠が、それぞれ蜀の東と南を防備していたが、王平の名声は彼らと並び称せられるほどであった。 |
| また、『華陽国志』によると、同郡の句扶や後任の大将軍である張翼、廖化と並んで賞賛されていたとある。 |
| 248年に病死し、嫡子の王訓が継いだ。 |
| 陳寿は『蜀書』王平伝で「長らく軍旅にあったため文章が書けず、知っている字は10字に満たなかったが、口述筆記させた文章は道理に適っていた。 |
| 『史記』・『漢書』を人に読んでもらってその大略をつかみ、論じては要旨を捉えていた。 |
| 法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。 |
| (中略)忠勇にして厳整な人物であった」と評する「平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。 |
| 使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。 |
| 遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、 |
| なお、中略部分につきノートも参照。 |
| 小説『三国志演義』では、漢中攻防戦に際して、漢中の地理に詳しいことから曹操に郷導使に任命されるも、徐晃と仲違いして殺されかけたために劉備に降り、以後蜀の武将として仕えたことになっている。 |
| また南蛮戦(南征)でも活躍している。 |
| 諸葛亮は臨終の時、忠義の士として廖化や馬岱らとともに王平の名前も挙げている。 |
| 南充市高坪区に墓所が残る。 |
| 光緒年間に墓碑が建てられ「漢将軍王平之墓」と記された。 |
| 地級文物保護単位。 |