| 太尉の楊賜を師と仰いでおり、楊賜が死去すると官を棄てて故郷に戻り喪に服した。 |
| 孝廉に推挙され、三公の府へ招聘されたが、出仕しなかった。 |
| その後、徐州刺史の陶謙に茂才に推挙された。 |
| やがて治中に取り立てられ、別駕の趙昱と共に陶謙を補佐した。 |
| 当時、献帝は長安におり、関東は兵乱で混乱していた。 |
| 王朗は趙昱と共に、朝廷に使者を派遣して勤皇の姿勢を示すべきだと勧めた。 |
| 献帝はその忠誠を嘉して、初平4年(193年)、王朗は揚州の会稽郡太守に任命された。 |
| 王朗の『家伝』によると、当時の会稽には秦の始皇帝を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。 |
| 会稽太守として着任した4年間で、民をいつくしんだという『資治通鑑』によれば、193年に王朗は会稽太守に就任し、196年に孫策に敗れ、孫策が会稽太守を自称している。 |
| 建安元年(196年)、揚州牧の劉繇の勢力を破った孫策が、会稽に進出した。 |
| 郡の功曹の虞翻は逃亡を進言したが、皇帝から任された城を守るべきだと考えてその意見を退けた。 |
| 王朗は兵を用いて抵抗しようとし、元の丹陽太守の周昕の協力も得て固陵において孫策の進撃を防いでいたが、孫静の進言により査瀆におびきだされ、周昕が斬られるなど孫策に大敗した『資治通鑑』漢記54。 |
| 王朗は城を棄てて船で東冶に逃れたが『献帝春秋』によると、交州への避難を目指していたという。 |
| 、孫策は追撃をかけ再び王朗を大敗させた。 |
| 王朗は孫策の元に出頭し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。 |
| 孫策も王朗が儒学の教養が豊かで謙虚な人物であったため処刑せずに許した『漢晋春秋』によると、孫策は王朗を憎んで張昭に動向を監視させ、王朗も屈服しなかったため、孫策は内心含むところがあったが、そのまま曲阿に引きとめていたという。 |
| 王朗はその後は一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為は目立っていた。 |
| 建安3年(198年)、王朗は曹操に召し出されて曲阿から出発し、長江や海を行ったり来たりしながら数年かけて都にたどり着いた。 |
| 孔融は王朗がなかなか到着しないのを心配し、手紙を送って労を慰めた。 |
| 都に到着後、曹操により諫議大夫・参司空軍事に任命された。 |
| 『漢晋春秋』によると、孫策の人物を尋ねられた王朗は「孫策は大きな野心と優れた人材を有しているため、ただの賊では終わらないでしょう」と語った。 |
| 王朗の『家伝』によると、王朗が若い頃に付き合いがあった人物に劉陽という者がいたが、早くに亡くなっていた。 |
| 生前の劉陽と曹操は敵対していたため、曹操は劉陽の遺族に辛く当たっていたが、王朗は劉陽の遺族を会稽において匿っていた。 |
| 会稽から帰還後、王朗は曹操を何度も説得して劉陽一家の赦免を曹操に認めさせたという。 |
| また孫策に手紙を送って、劉繇の遺族が害されないよう依頼をしたということもあった『三国志』「劉繇伝」。 |
| 建安18年(213年)、魏が建国された時には丞相参軍祭酒に就任しており、さらに魏郡太守を兼任した。 |
| それから昇進して、少府・奉常・大理を歴任した。 |
| 大理としての仕事ぶりは寛容を旨とし、罪に疑義があるときは軽くするよう取り計らった。 |
| その法の運用ぶりは鍾繇と並び賞賛された。 |
| 『魏略』によると、かつて会稽で米の飯を節約したことを曹操にからかわれたため、王朗は、かつての王朗のように節約すべきでないときに節約したことと、今の曹操のように節約すべきときに節約しないことは全く異なると反論した。 |
| また、孫権が曹操に臣従し、貢ぎ物を送ってきたことについて意見を求められると「呉が陥落した後、巴・蜀を席巻すれば状勢は決まります。 |
| 慶事は続くでしょう」と述べた。 |
| 延康元年(220年)2月、曹操が亡くなり曹丕が魏王の位を継ぐと、王朗は御史大夫に昇進し、安陵亭侯に封じられた。 |
| 民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう上奏した。 |
| 献帝が曹丕に帝位を禅譲しようとすると、曹丕にそれを受けるよう勧めた。 |
| 曹丕(文帝)が皇帝に即位した後の黄初元年(同220年)11月、御史大夫の官は司空に改称され、また楽平亭侯に昇進した『三国志』「文帝紀」。 |
| 文帝は狩猟をしばしば楽しんだが、王朗は上奏し、帝王の心構えを説いて、思慮に欠ける行為は慎むよう諫言した。 |
| 文帝は古代の帝王と昨今の状勢において武の道を尊ぶことは否定されるべきでないとしてこれに反論した。 |
| 『魏名臣奏』によると、王朗は経費の節約と労力の削減を説いた上奏を行ったという。 |
| また、かつて大理であったときに主簿であった張登の功績の顕彰を黄初年間に今度は太尉の鍾繇と連名で行い、その忠義と職務熱心さをに文帝に認めさせ、張登を太官令に引き立てたという。 |
| 臣従していた呉の孫権と、それに敵対する蜀の劉備の間で戦闘が起こると(夷陵の戦い)、文帝は孫権と協力して劉備を討つため軍を出そうとした。 |
| 王朗は、まずは孫権が動いてからにすべきと述べ、軍を動かすことに消極的な意見を述べた。 |
| 黄初3年(222年)、孫権が子の孫登を上京させようとしなかったため、文帝は呉征伐を考え、許昌に移って出陣の準備を始めた。 |
| 王朗は現時点での出陣は軽はずみで無駄が多いのではと諫言した。 |
| 文帝は結局計画通り出陣したが、長江を前に引き返すことになった。 |
| 黄初4年(223年)、高官達に対し、優れた人物を推挙するよう詔勅が下されると、王朗は光禄大夫の楊彪を推挙し、自身は病気だとして楊彪に地位を譲ろうとした。 |
| 文帝は楊彪に三公に次ぐ地位を与えると共に、王朗に職務に復帰するよう述べた。 |
| 王朗は命令に服し、職務に戻った。 |
| 黄初7年(226年)5月、文帝が亡くなり曹叡(明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進し、500戸の加増を受け、所領は1200戸となった。 |
| 明帝に対しても、労役や出費の軽減を具申した。 |
| 同年12月、司徒に転任となった。 |
| 明帝が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、明帝に感謝されている。 |
| 王朗は儒学に通じ、『易経』『春秋』『孝経』『周礼』の伝(注釈)を著し、上奏や議論などの著述の全てが世に伝わっていた。 |
| 正始6年(245年)、曹芳の代に王朗の『易伝』は、官吏登用の受験科目として採用された『三国志』「斉王紀」。 |
| また、劉備の没後に蜀の丞相となった諸葛亮に臣従を促す手紙を送ったが、返答はなかった『三国志』「諸葛亮伝」の注に引く『諸葛亮集』。 |
| 太和2年(228年)11月に死去。 |
| 子の王粛は、会稽太守であったときに生まれた人物で、司馬氏に接近し、司馬昭に娘(王元姫)を嫁がせている。 |
| 王元姫は司馬炎(西晋の武帝)、司馬攸達の生母となった。 |