| 深沈典雅で器量があった。 |
| 父の爵位である京陵侯を継承し、大将軍曹爽の招聘を受けたが、曹爽が失脚し誅殺されると免職となった。 |
| 後に懷県令として復帰し、安東将軍司馬昭の参軍事となり、黄門侍郎、散騎乗尉、越騎校尉と昇進した。 |
| 禅譲により晋が成立すると揚烈将軍の官を加えられ、徐州刺史に転任となった。 |
| そのころ天災により飢餓が発生していたため、施しを行い人心を安定させた。 |
| 封邑の加増を受け、東中郎将・監淮北諸軍事となり、許昌に駐屯した。 |
| 転じて征虜将軍・監豫州諸軍事・仮節・領豫州刺史となった。 |
| 呉に対し武威を示し、呉から降伏してくる者が甚だ多かった。 |
| 呉将の薛瑩、魯淑が軍勢十万と号して攻め寄せたとき、州兵の多くは休暇が与えられており、手元には一旅の兵しかなかったが、王渾はその手勢で呉軍の不意を突いて出陣し、薛瑩らを撃破した。 |
| 安東将軍・都督揚州諸軍事・持節となると、揚州刺史応綽と淮南諸軍を派遣して呉の長年の重要拠点皖城と諸屯営を攻め破り、多数の穀物、稲苗、舟船を焼いた。 |
| 王渾は東の境界に兵を並べ、その地形・敵城を観察し、来たる呉攻撃に備えた。 |
| 279年からの征呉の役では、揚州刺史の周浚と司馬の孫疇を派遣して呉の丞相張悌と大将軍孫震を破って二人を斬り、首級と捕虜合わせて7800を得るなど多大な功績を挙げた。 |
| しかし、王渾が呉の主力と戦っている隙に益州から長江を下って侵攻してきた王濬が孫皓を下したため、その独断専行を弾劾した。 |
| 武帝から呉を下した大功を王濬と共に評価され、褒美を与えられると共に子弟に爵位が与えられた。 |
| 呉方面にとどまりしばらく統治に励んだ後、尚書左僕射・散騎常侍となり中央に戻った。 |
| 武帝の弟である斉王司馬攸が匈奴の劉淵を除くよう進言すると、劉淵と親交があったため、彼のために弁護を行った(『晋書』劉淵伝)。 |
| 後に司馬攸が武帝と仲違いし帰藩を命じられたときは、多くの群臣達と共にこれに反対し、外に出すのであれば司馬攸に代えて司馬亮をあてるべきだと勧めた。 |
| 武帝はこれに従わなかった。 |
| 子の王済は武帝の娘婿で寵臣の一人であったが、やはり父と共に武帝の意向に反対し、寵を失い、しばらくして父に先立ちこの世を去った。 |
| 太熙年間に司徒になり、恵帝の時代になると侍中を加えられた。 |
| 楊駿が誅殺されると、旧臣として崇敬を受け、兵権を特別に与えられたが、文官である司徒が一時の寵愛によって兵を持つのは旧典にないとしてこれを返上した。 |
| 論者はその謙譲と見識を称えたという。 |
| 後に司馬亮と衛瓘を討つため楚王司馬瑋が挙兵したとき、三軍に威名の轟く王渾を味方につけようとしたが、王渾はこれに応じず家兵千余人を配備して私邸に引きこもった。 |
| 司馬瑋が誅殺されると、その兵を率いて官に赴き、録尚書事に任じられた。 |
| しかし、王渾は官職を歴任して称賛著しかったが、台輔(宰相)に就いてからは声望は日ごとに減少していったとされる。 |
| 元康7年(297年)死去。 |
| 長子の王尚は早くに亡くなり、次子の王済が後継であったが、その王済にも先立たれることになったため、王済の子で孫の王卓が跡を継いだ。 |
| 中華統一の元勲の一角として、王渾とその一族は高官・爵位を得、西晋朝廷に栄華を誇ることになった。 |