| 征南将軍羊祜の参軍事となり、羊祜に優待された。 |
| 羊祜の甥の羊暨が、「王濬は志は大きいが奢侈で節義が無いので、専任すべきではありません」と進言したが、羊祜は王濬の才腕を必要なものとして取り合わなかった。 |
| 巴郡太守、広漢太守に昇進し、当地の兵役を緩め、恵みをもたらして郡民に喜ばれた。 |
| 益州刺史の皇甫晏が張弘の乱によって殺害されると、代わって刺史となり、張弘を誅し、その後も蛮夷を懐柔して多数を帰属させた。 |
| その功績で宮廷に入り、右衛将軍、さらに大司農となるが、王濬を奇略の持ち主と知る羊祜は、密かに上表して再び益州刺史とした。 |
| 王濬は蜀の旧臣である何攀を重用し、羊祜とも連絡を取り合って呉討伐の協議を進めた。 |
| 詔勅によって討伐するための艦船を建造し、咸寧5年(279年)、龍驤将軍・監梁益諸軍事として、長江を下って呉に侵攻した。 |
| 王濬は各地で呉軍を破り、翌太康元年2月、戦地で平東将軍・仮節都督益梁諸軍事へ昇進して、建業へ迫った。 |
| この時、先んじて建業近郊に到着し、呉の中軍京師(首都)防衛の中央軍を破り、丞相張悌を斬るという活躍をしていた安東将軍王渾は、王濬へしばらく前進を待つようにと軍令を出した。 |
| しかし、王濬は船の帆を指し「風向きは利がある。 |
| 泊れない」と勝手に前進したため、呉帝孫晧は王濬の下に降伏してしまった。 |
| 王濬に続いて建業に入ることになった王渾は、これをはなはだ遺恨に思い、武帝(司馬炎)に王濬の弾劾を上表した。 |
| 王濬は征伐の大功によって罪は免れたが、このため王渾との不和は以後長く続くことになった。 |
| 呉を滅ぼした功績により輔国大将軍・領歩兵校尉となり、最終的に撫軍大将軍・開府儀同三司・特進・散騎常侍にまで昇り、襄陽侯に封じられた。 |
| 太康6年(285年)死去した。 |
| 柏谷山に葬られ、その垣根は周囲45里、四面に門を備え、松柏が生い茂ったという。 |