| 既に死去した大臣達のために喪を発し、宗廟を祭ることを上奏し、聞き入れられた。 |
| また、官職の整理と古代の儀礼の復活を具申した。 |
| 青龍年間に、山陽公(後漢の献帝)が没した。 |
| 山陽公(献帝)は王者の礼で葬られることになったが。 |
| そのおくりなが問題になった。 |
| 王粛は「皇帝」の「皇」と「帝」の呼称のうち、「皇」の方がやや軽い別称だとして、山陽公のおくりなに皇の字を用いるべきと提言した。 |
| 明帝(曹叡)はこれに従わず、山陽公におくりなを与え孝献皇帝と称した。 |
| 常侍の身分で秘書監を務める立場となり、祟文観祭酒を兼任した。 |
| 景初年間、明帝は宮殿造営に熱中し、政治は弛緩し人民は疲弊した。 |
| 王粛は上奏し、政治の引き締めと経費の節減を求めた。 |
| 明帝は、前漢と後漢の事例を引いて質問したところ、王粛は的確な返答をし、帝王としての心構えを明帝に示した。 |
| 240年、広平の太守となったが、召し返され議郎に任じられ、しばらくして、侍中となり、太常に昇進した。 |
| 当時、大将軍の曹爽が朝廷の実権を握り、何晏など側近達が政治をほしいままにしていたが、王粛は何晏達を激しく憎悪し、あるとき蒋済と桓範に対しその不満をぶちまけた。 |
| 曹爽はそれを耳にして王粛達に対する警戒を強めた。 |
| まもなく、宗廟の祭祀についての問題で免職となった。 |
| のちに光禄勲として復帰した。 |
| 司馬師が実権を握った時代、武器庫の屋根に二匹の魚が上る事件があった。 |
| ある者はこれを吉兆と判断したが、王粛は辺境での変事を意味する凶兆と判断した。 |
| まもなく東関の敗戦の報告があった。 |
| 河南の尹に転任した。 |
| 後に持節兼太常となった。 |
| 254年、司馬師が曹芳を廃立すると、新皇帝として曹髦が擁立されることになったが、王粛がその迎えの使者となった。 |
| この年に白気が天空を横切る事件が発生した。 |
| 司馬師は王粛にその理由を尋ねたところ、王粛は東南で動乱が勃発するが、司馬師が徳により人心を安定させれば、反乱はたちまち平定されるだろうと応えた。 |
| 255年、毌丘倹と文欽が揚州で反乱を起こした。 |
| 司馬師に対策を尋ねられると、王粛はかつての関羽の敗退した例を引き、反乱軍の将兵の家族を確保し、反乱軍の進出を阻止すれば、彼らはやがて自壊するだろうと述べた。 |
| 司馬師はその言葉に従い、反乱を鎮めることができた。 |
| 王粛は中領軍に昇進し、散騎乗侍を加わえられた。 |
| 領邑を300戸加えられ、あわせて2200戸を領した。 |
| 256年逝去し衛将軍を追贈され、景侯と謚した。 |
| 子の王惲が後を継いだ。 |
| 王惲に跡継ぎがなかったため、国は断絶した。 |
| 263年、王恂がとりたてられ、蘭領侯とされた。 |
| 禅譲により晋(西晋)が興り、五等の爵位が定められると、王粛の生前の功績が評価され、王恂が永県の子爵とされた。 |
| 王恂の妹の王元姫は司馬昭の妻となり、司馬炎(西晋の武帝)の生母である。 |
| 『晋諸公賛』によると、王恂には8人の兄弟があり、そのうちの王虔と王愷の2人が出世し西晋の高官に上ったという。 |
| 礼制について後漢の鄭玄の説に反対し、鄭玄説を擁護する王基などと議論をした(「王基伝」)。 |
| そのとき、孔子と弟子たちの言行録である『孔子家語』に注を施しこれを根拠にしたという。 |
| なお、この『孔子家語』は王粛の偽作ともいわれ、一から捏造したのではなくもともとあったものを王粛が改竄したともいわれる。 |
| 渡邊義浩は、曹魏の禅譲の正当化の根拠となった鄭玄説を否定することによって、司馬氏の簒奪を正当化する狙いがあったのではと推定している。 |
| 西晋では王粛説が羽振りを利かせたが、以降は鄭玄説が再び有力となった。 |
| 近年、王粛説の再評価もされつつある。 |