| また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育したため名声を博した(後に殺害)、それに王莽の妻が不平を述べたと伝えられる。 |
| 壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けたため、王鳳は死に臨んで成帝に王莽を託す。 |
| これ以後、王商や王根の推挙と皇太后となった伯母の後ろ盾を背景に王莽は順調に出世する。 |
| 親戚の淳于長を失脚させ、大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどになった。 |
| しかし外戚を除こうとした哀帝が即位すると罷免され、封国へ追いやられたが、国政復帰の嘆願を多く出させ、長安に呼び戻させる。 |
| 永始元年(前16年)、新都侯に封ぜられる新都侯国は南陽郡にある。 |
| 哀帝を殺害すると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。 |
| 儒学と予言書に基づいた政策を実施する一方、民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺させている。 |
| 娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった後、5年には14歳になった平帝を毒殺、こんどは遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を皇太子に立て、自らは「仮皇帝」「摂皇帝」として朝政の万機を執り行った。 |
| 居摂三年(8年)、王莽は高祖の霊から禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。 |
| この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。 |
| 太皇太后として伝国璽を預かっていた孝元皇太后王政君は、玉璽受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に向かって玉璽を投げつけ、王莽を散々に罵倒したと史書は伝える。 |
| 王莽は周代の治世を理想としたが、現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動も停止したため民衆の生活は漢末以上に困窮した。 |
| また匈奴や高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、中華思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗。 |
| さらには専売制の強化なども失敗、新は財政も困窮した。 |
| 生活の立ち行かなくなった農民の反乱(赤眉の乱)が続発。 |
| 王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られ、これで各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。 |
| 遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という者に殺された。 |
| これにより新は一代限りで滅亡した。 |
| 王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によってばらばらに分断されたという。 |
| 王莽の死後、漢の一族の更始帝の変遷期を経て、劉秀(光武帝)によって漢朝が復興した(後漢)。 |
| 王莽の政治については批判的な評価が下されている。 |
| 祭儀に関しては、漢朝臣下の時代に自ら定めた「皇帝の即位儀礼」が光武帝以降の歴代の皇帝に受け継がれ、即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。 |