| 実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。 |
| 両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。 |
| 父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。 |
| 小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。 |
| 子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。 |
| 当時の広島一中は江田島が近いため、海軍兵学校へ行く者、陸軍幼年学校へ行く者を育てるための軍人養成学校のようなスパルタ教育校だった。 |
| 両親には商人になれと迫られ、どうしても商売をしなければならないなら、と東京商科大学(現・一橋大学)予科へ進学し上京。 |
| 関東大震災の翌年で東京は焼け野原だった。 |
| 卒業後、海外勤務を希望し三菱商事を受験。 |
| 世界的な就職難の時代、縁故と陸上部に所属していながら成績がよいという理由で三菱商事に入社出来た。 |
| 営業を希望し機械部勤務。 |
| この頃から「将来は社長になる」とまわりに吹いた。 |
| 入社半年で第一次世界大戦に負けたドイツが戦勝国・日本に払う「対独賠償債権」の請求を担当。 |
| 猛勉強して大蔵省の役人を前に為替変動の仕組みを講義した。 |
| 台湾・高雄支店、大阪機械支店の後、ニューヨーク支店に転勤。 |
| 当時日本からアメリカへの機械輸出は0で、この頃不況だったアメリカの鉱山地帯をまわり、採掘機械を大量に安く買い付け、満州関係の業者に売ったり、日産自動車の浅原源七や山本惣治に頼まれ、自動車製造技習得のため工場案内や、アメリカの技術者の日本派遣の手引きなどをする。 |
| 当時はトヨタ自動車もようやく車の製造を開始した頃だった。 |
| また同様に八幡製鐵所などの製鉄技術者の案内や製造機械の日本輸出などを行った。 |
| 他の機械担当者は実際のビジネスを外人まかせにする事が多かったが、田部はアメリカの大企業のトップと直接交渉した。 |
| GHQの生活に必要な機械・備品などを請け負い大きな業績を上げた。 |
| 、財閥解体で機械課の部下約100人を束ね新会社「新日本通商」を設立1つの会社に100人以上集まってはならなかった。 |
| まだ40歳のため社長をかつての上司に頼み専務となった。 |
| ニューヨークに勤務した経験を活かし、かつてのアメリカの取引先と日本への機械輸出の代理権契約に次々に成功。 |
| 八幡製鐵所戸畑工場に設備する機械は当時の価格で1000万ドルの物もあった。 |
| 契約成立の時は足が震えたという。 |
| 新日本通商も大きく飛躍したが、これらの契約は後の三菱商事大合同後も続き、同社の発展に大きく貢献した。 |
| 朝鮮動乱による特需でさらに会社も膨張。 |
| には四社を合併し「東西交易」を設立した。 |
| 低成長時代の対応に就任間もなく、経済に対する危機感をいち早く深め「非常事態宣言」なるものを出し社内に徹底させた。 |
| 当時は第一次オイルショックで物価が暴騰し、商社性悪説が蔓延。 |
| また、また韓国地下鉄の国際入札の斡旋をしたと国会で尋問された。 |
| 秋には、これまでタブーとされていた武器輸出の検討を提唱、時の人になった。 |
| これがきっかけで、通商産業省は「準武器」輸出は認める方針を打ち出したが、野党の反発などで次第に政治論争の色彩を帯びた。 |
| ところがに入ってロッキード事件が起こり、こうした論争は吹き飛ばされた。 |
| さらに高度成長期の限度を越える土地投機や事業拡大がオイルショックで一気に不況。 |
| 多大な融資を行っていた永大産業や興人、丸紅と共同で手掛けていたVANジャケットなどが相次ぎ倒産。 |
| 不良債権は2000億円に上るといわれたが、これの後始末に辣腕ぶりを発揮し「将来に悪い債権は絶対に残すまい」と在任中に償却、整理した。 |
| 特別顧問に退いた。 |
| また日本商工会議所副会頭、輸入会議会長、三菱財団理事長、社団法人如水会理事長など多数の役職を兼務した。 |
| 戦後日本の高度経済成長の一翼を担った経済人の一人である。 |
| に発売した自著「幾山河」はベストセラーとなった。 |