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プロフィール
- 甲賀源吾とは
- 生い立ち
- 幕府海軍
- 戊辰戦争
- 戦死とその後
- 人物
- 参考文献
- 扱われた作品
- 関連サイト
甲賀源吾(こうがげんご)、名は秀虎。天保10年1月3日(1839年2月16日)-明治2年3月25日(1869年5月6日)。幕末の幕臣で、軍艦操練方。のち、箱館政権(俗に蝦夷共和国)海軍の主要メンバーとなる。 回天丸艦長として 宮古湾海戦で戦死。
生い立ち
| 遠江国掛川藩家臣、甲賀孫太夫秀孝の第4子として、掛川藩江戸藩邸で生まれる。 |
| 14歳のころには、父親に従って掛川に帰っていたが、安政2年(1855年)、17歳のとき、江戸に出て、佐倉藩士木村軍太郎に就いて蘭学を学ぶ。 |
| 2年後に帰省するが、安政5年(1858年)、航海術を学ぶことを志し、江戸へ出て、築地の幕府軍艦教授所で教授頭を務めていた矢田堀鴻の下で学び、夏には矢田堀に従って長崎へ行っている。 |
| この前年から、カッテンディーケを筆頭とする第2次オランダ海軍伝習教師団が、長崎海軍伝習所に来ていた。 |
| 甲賀の長兄・郡之丞は、勝海舟や矢田堀とともに、ただ一人の掛川藩士として、第1次の長崎オランダ海軍伝習を受けていた。 |
| しかし、第2次のころには、幕臣以外の者の新たな受け入れはしていなかったにもかかわらず、甲賀が長崎へ行ったということは、矢田堀の門下として、非公式に伝習を見学した可能性が高い。 |
| 続いて、矢田堀の甥、荒井郁之助とともにオランダ語で高等数学を研究し、艦隊操練の書を翻訳した。 |
| その後甲賀は、英語も学んだという。 |
幕府海軍
| 安政6年(1859年)、幕臣となって軍艦操練方手伝出役を任ぜられ、翌年には神奈川港警衛。 |
| 文久元年(1861年)、軍艦操練教授方出役。 |
| 御軍艦組出役となり、江戸湾を測量した。 |
| 翌2年、外国奉行水野筑後守を筆頭とする幕府の小笠原諸島視察団が、当地を日本領土として保全するため、咸臨丸に乗り組んだが、石炭や食料、農具などの物資を運ぶために帆船千秋丸を使うことになった。 |
| 甲賀は、この千秋丸に、荒井郁之助とともに御軍艦測量方として乗り組んだ。 |
| 老朽帆船で、冬の太平洋を渡ることには無理があり、船が流されて苦労した。 |
| ごく短いものだが、このときの甲賀の手記が残っている。 |
| 文久3年(1863年)には、陸路上洛する将軍徳川家茂の護衛のため、江戸・大坂間二往復の航海に従事し、大坂湾測量を命じられる。 |
| この年5月、御軍艦組に召し出され、御目見以上の格式となった。 |
| 7月には、長州藩の外国船砲撃にはじまった下関戦争において、朝陽丸艦長として、長州・小倉二藩へ幕府から派遣された使者たちを乗せ、下関へ向かった。 |
| 甲賀の家族宛手紙によれば、使者たちの使命は、一つには長州奇兵隊が小倉藩領を占拠していたため退去させることで、小倉藩領に使いした使者はこれに成功したが、長州藩領下関に上陸した使者は殺害された。 |
| 甲賀は、長州藩士から、攘夷戦のための朝陽丸借用を迫られたが、きっぱりと拒んだ。 |
| 翌元治元年(1864年)、将軍の海路帰東に従い警護。 |
| 第一次長州征討においては、安芸、豊前へ航海する。 |
| 慶応2年(1866年)、奇捷丸艦長となり大坂へ航海。 |
| 翌3年には、小十人格軍艦役勤方に昇進。 |
| 同年、幕府の築地海軍伝習所にイギリス海軍軍事顧問団が着任し、11月5日より伝習がはじまったのにともない、伝習所軍艦役となり、11月26日には生徒取締を兼ねる。 |
| 鳥羽・伏見の戦いの直前である。 |
戊辰戦争
| 慶応4年(1868年)には軍艦頭並に昇進したが、すでに戊辰戦争が始まっていた。 |
| 江戸城明け渡しに際し、勝海舟は官軍への軍艦の引き渡しを約していたが、海軍副総裁榎本武揚はそれを拒み、荒井郁之助や甲賀を含む旧幕府海軍の主な面々も、それに同調していた。 |
| 交渉の結果、軍艦については、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形丸の4隻が徳川家に残されたが、新政府の様々な処置に不満を抱いた榎本は、徳川家の駿府移転を見届けた後、艦隊を率いての脱走を決意。 |
| 8月19日、開陽丸を旗艦とする榎本艦隊は、輸送船に旧幕府陸軍を乗せ、江戸品川沖を出発した。 |
| このとき甲賀は回天丸艦長だった。 |
| 回天丸は速力の出ない咸臨丸を曳航していたが、房総半島沖にて台風にあい、やむをえず曳綱を切った。 |
| 暴風のため前部と中央のマストを折り、後部マストのみになったが、無事、奥羽越列藩同盟の中心地だった仙台藩の松島湾に入港した。 |
| その後、回天丸は単独で北上し、気仙港を偵察したところ、千秋丸を発見して拿捕した。 |
| 甲賀が小笠原諸島に向かったときに乗り組んだ旧幕府所有の帆船だが、仙台藩に貸し出されていた。 |
| 徳川家に帰されることになったが、乗組員が奪って、海賊行為を働いていたものだという。 |
| 9月に入り、列藩同盟側は次々に降伏。 |
| 榎本艦隊は旧幕陸軍をはじめ、なおも抵抗を志す陸兵を収容し、蝦夷地をめざした。 |
| もちろん甲賀も、回天丸艦長としてその中にあった。 |
| 艦隊は、10月20日、函館北方の鷲ノ木に到着し、これより箱館戦争となる。 |
| 翌日、回天は僚艦蟠竜丸とともに函館港をうかがい、25日には水兵を上陸させて占領した。 |
| 27日には、それを知らなかった官軍側の秋田藩軍艦高雄丸が入港したため、甲賀は回天、蟠竜の士官に水兵を率いさせて拿捕した。 |
| 松前藩との戦いでは陸軍の応援をし、開陽丸が江差で座礁したときには救援に向かったが、ついに救いえなかった。 |
| 以降、回天が艦隊の旗艦となる。 |
戦死とその後
| 明治2年(1869年)3月、新政府軍蝦夷地征伐の報せを聞いて、海軍奉行となった荒井やフランス軍人らと協議の末、「甲鉄艦」奪取作戦を決行。 |
| 甲賀は「敵を待つよりは積極的に責めよう」という信念から、作戦の中心になっていたと見られる。 |
| 甲賀の指揮する旗艦回天は、蟠竜、高雄とともに宮古湾をめざしたが、悪天候のため、蟠竜ははぐれ、高雄は故障し、回天のみが宮古湾海戦に突入することとなった。 |
| 甲賀は「我一艦といえども以て敵を破るに足れり」と言ったと伝えられる。 |
| 劣勢に耐えて左足や右腕を銃弾に撃ち抜かれながらも甲板上で猛然と指揮していた甲賀だったが、ついに頭(こめかみ)を撃ち抜かれて戦死した。 |
| 回天丸は荒井が梶を握って26日に箱館へ帰還し、戦死者はその翌日埋葬された。 |
| 埋葬場所は某寺だったが、後に碧血碑の後ろに改葬されたという。 |
| また昭和6年、誕生地旧掛川藩邸にほど近い東京都駒込の大観音光源寺境内に、甥で死後養子の甲賀宣政が記念碑を建てた。 |
人物
| 寡黙で、思慮深くありながら度胸が座っていたという。 |
| 部下を愛し、また慕われた。 |
| 幼少のころより撃剣を学んでその道に志した時期もあったという。 |
| 荒井郁之助は、「業を修むるに鋭意にして勤勉倦まず。 |
| 少なしく解せざることあれば手に巻を釋てず。 |
| 暫くにして其事を解するに至りて止む」と、探求心の旺盛であったことを賞賛し、早世を惜しんでいる。 |
| また、新政府軍側で宮古湾海戦を戦った東郷平八郎は、「賊ながらも60年後の今日に至るまで私の歎賞措く能はざる勇士なり」と、記念碑に賛辞をよせている。 |
参考文献
| 石橋絢彦『回天艦長 甲賀源吾傳 附函館戦記』昭和8年3月20日改訂三版、甲賀源吾傳刊行會発行(マツノ書店、2011年4月、復刻版)。 |
| 大山柏『戊辰役戦史』1988年12月5日補訂版、時事通信社発行。 |
| 勝海舟『海軍歴史』明治22年11月、海軍省発行(近代デジタルライブラリー所蔵)。 |
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1855年
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17歳のとき、江戸に出て、佐倉藩士木村軍太郎... |
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航海術を学ぶことを志し、江戸へ出て、築地の... |
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つながりの強いひと
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榎本武揚
江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。 |
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